211年、曹操は鍾ヨウに張魯の討伐を命じた。 馬超・韓遂や他の関中の軍閥はこの遠征に疑念を抱き共に曹操に対して反乱を起こし、 潼関に攻め寄せた。関所を挟んで両群は対峙した。 曹操が渡河を試みると馬超は渡りきらないうちに岸辺の船団に激しい攻撃を加えた。 曹操軍の校尉の丁斐 が牛馬を解き放つと馬超軍の兵士はこれらを略奪するために隊列を乱した。 曹操は許[ネ'者]により船に収容され、からくも逃げ延びた。 曹操軍が桶道(木の壁で覆った通路)を築いて陣を張ると渭口に馬超らは退却した。 曹操軍が渭水を渡って陣を築こうとしているのを見て、 馬超軍は襲い掛かるが伏兵の罠にかかって大敗した。そこで講和を申し出た。 韓遂の要請により曹操は韓遂・馬超と駒を並べて会談した。 このとき馬超は自らの武勇を頼んで曹操を討ち取ろうとしたが、 後ろで許[ネ'者]が睨みつけており、実行に移せなかった。 曹操は賈[言羽]の計略を用いて馬超と韓遂の仲を裂いたため、 お互い猜疑心を抱くようになり、そこをつかれて連合軍は敗退した。
馬超は逃亡し、西方の羌族を従えて隴上の諸城を攻撃し、 張魯から援軍として楊昂の派遣を受け、 涼州刺史の韋康が篭る冀城を包囲した。 楊阜を中心とした冀城の抵抗を抑え、 援軍を求める使者の閻温を殺害すると、 冀城は降伏した。韋康を楊昂に命じて殺害させた。韋康の救援にきていた 夏侯淵を破り、 興国[氏一]の千万、阿貴なども味方にして駐屯した。 征西将軍・涼州諸軍事を自称し、并州牧を兼任した。
韋康の部下であった楊阜、梁寛、姜叙 らは共謀して馬超にそむいた。 214年、馬超は姜叙・楊阜を攻撃するために鹵城に向かったがこれを落とせず、 留守中に冀城で梁寛らが蜂起して馬超の家族を殺害したため、 進退窮まって張魯に身を寄せた。
張魯は馬超を歓迎して都講祭酒に任命し、娘をめとらせようとした。 しかし別の者が張魯を諌めたため実現しなかった。 張魯に兵を借りて再び北征して趙昂・王異 夫妻の篭る[示β]山を包囲した。 これが落とせないうちに張[合β]が援軍として来襲したため、 羌族や[氏一]族の兵数千を率いて渭水のほとりでと対峙したが交戦せずに退却した。
劉備が劉璋 の拠る成都を包囲すると、張魯のことが取るに足らないと内心思っていた馬超は密書を送り、 劉備の元へ出奔した。(別説には劉備が李恢 を派遣して劉備軍に参加するよう説得した) 馬超が劉備に付いたと聞くと、成都の人間は恐れおののき劉備に降伏した。 劉備は馬超を平西将軍に任命し、臨沮を守らせた。
217年、張飛・呉蘭 らと共に下弁郡に侵入した。しかし翌年曹洪の攻撃を受け、 [氏一]族の強端の裏切りにより呉蘭が戦死したため退却した。
劉備が漢中王になると左将軍に、221年には驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼任した。 222年、47歳で死去し、後年威侯と送り名された。死に臨んで馬超は劉備に 「私の一門二百人余りは曹操によりほとんど根絶やしにされましたが、 従弟の馬岱だけが残っております。 家の祭祀を継ぐ者として陛下にお托ししたいとおもいます。 他に望むことは何もありません。」と上奏した。 (蜀書・馬超伝)
その後2年間雌伏し、羌族を率いて挙兵。 冀城を落として韋康を日和見の降伏者として殺害したが、 楊阜は降伏に反対した忠義者として生かしておいた。楊阜は梁寛らと密約を交わした上、 妻の死を理由に歴城に行き、姜叙・趙昂らと反乱を起こす。夏侯淵の援軍もあり馬超は敗れて冀城に戻るが、 そこで梁寛らの裏切りに遭い、妻の楊氏や子供たちを目の前で殺され、城壁から投げ落とされた。 歴城まで落ち延び、姜叙の老母や趙昂・尹奉の一家を捕らえて皆殺しにたうえ、 追撃に来た楊阜の七人の弟を討ち取り楊阜にも傷を負わせた。張魯の元に落ち延びた。 このように楊阜らとの戦いも「正史」と同じように描かれている。
張魯は馬超の訪問を喜んで娘を馬超にめあわせそうとするが、 楊柏は馬超が妻子を失ったのは自らの残虐な行いの報いだと進言し、 縁談は取り止めとなった。馬超は楊柏を恨み、楊柏も楊松 と共に馬超の命を狙うようになった。 劉璋が劉備に攻撃されると張魯に援軍を求めたため、馬超は監督役の楊柏らと共に蜀へと出陣する。 張飛と壮絶な戦いを繰り広げるが決着は着かず、諸葛亮 の離間の計により張魯に疑われた馬超は、 李恢の説得に応じて劉備に帰順。これを聞いた成都の劉璋らは意気阻喪したという。
漢中攻めでは張飛と共に下弁を攻め、曹彰を打ち破った。 劉備が漢中王になると五虎将軍の一人に任命される。 夷陵の戦いの際には魏延と共に漢中に残った。劉備の死後、 司馬懿の計略により陽平関に攻め寄せた羌王の 軻比能を羌族と親交が深い馬超は戦わずに退かせた。 諸葛亮の南征でも漢中の守りについた。 第一次北伐の際、諸葛亮によって馬超の死が語られる。
馬騰・韓遂の両人はあるときは独立し、あるときは中央になびく、 を繰り返して巧妙に勢力を維持しており、涼州/雍州でも独立を求める勢力と、 韋端・韋康親子や楊阜に代表される中央寄りの勢力があったように見えます。 中央(曹操)からの圧力が増大し、 それに耐えられなくなった馬超は韓遂や関中の諸軍閥と連合して渭水で曹操との対決に至りますが、 見方を変えると曹操側からの挑発に乗ってしまったとも言えるでしょう。
再起を図った冀城をめぐる争いでは羌族を味方につけて一度は勝ちを得ますが、 楊阜を中心とした韋康の遺臣たちの壮大な謀略の前に敗れ去ります。 謀略や戦闘の詳しい記述、お互いの親族の虐殺、 姜叙の母や王異などの個性的な女性の登場、 などなかなかドラマチックに楊阜と馬超の争いは「正史」では記述されています。
実質楊阜に敗れて張魯に身を寄せたところで馬超の「正史」における活躍は終わり、 劉備に帰順した後のことはあまり記述がありません。しかしながら弱小勢力である蜀の元に、 大軍閥の長であった馬超が従ったというインパクトは多大であったことでしょう。
「三国志」の中では呂布に次ぐ戦闘能力を持った人物というイメージが個人的にはあります。 しかし「季漢輔臣賛」では「離反したり同調したり常ならず、 敵にその隙をつかれ一門を失ったが道理にそむいたからだ」と評され、 暴虐な面がさらなる不運を招いたという見方もでき、これも呂布に次ぐところだと思います。 ただし呂布と違って蜀に仕えて生き延び、子孫を残しました。 このことは評価できると陳寿の評にもあります。