227年、諸葛亮が漢中に駐屯すると魏延を改めて督前部に任命し、 丞相司馬・涼州刺史を兼任させた。 230年、諸葛亮の命で呉懿を率いて羌中に侵入し、 郭淮、費瑶を撃破した。 前軍師・征西大将軍・仮節に昇進し、南鄭侯に封ぜられた。 231年、司馬懿は張[合β] を派遣して[示β]山を守る何平を攻撃させた。 諸葛亮は魏延、高翔、呉班 を何平の援護として派遣し、張[合β]を打ち破り、三千もの首級と多くの兵器を得た。
魏延は諸葛亮に従軍する度に、一万の別働隊を率いて夏侯楙が守る長安を急襲し、 諸葛亮と潼関で合流する策を進言していたが諸葛亮はこの策を用いようとはしなかった。 魏延は自分の策が用いられないことを不満に思い、諸葛亮を臆病だと非難した。
魏延は士卒をよく養成し、勇猛で誇り高い人物だったので同僚たちは彼を避け、 へりくだって彼に接した。しかし楊儀だけは魏延に容赦せず、二人は犬猿の中であった。 議論の最中に魏延は刀を抜いて楊儀に付きつけ、楊儀は頬に涙を流す、などといった有様であった。
234年秋、諸葛亮は病気となり楊儀、姜維、費[ネ韋] らに自分が死んだ後の撤退策を3人に授けた。それは魏延を殿軍として敵を防がせ、 姜維はその前を行き、魏延が撤退命令に従わない場合は彼を置いていく、というものであった。 諸葛亮が死ぬと楊儀は費[ネ韋]を魏延に派遣して撤退を命じた。ところが魏延は 「丞相が亡くなられても私は健在だ。諸軍を率いて賊を討つのが当然であり、 一人の死によって天下の事を止めてはならない。それにこの魏延がなぜ楊儀の指図を受けねばならぬ?」 と言って留まろうとした。費[ネ韋]は楊儀を説得すると言って魏延の元を脱出した。 魏延は楊儀らが撤退を始めていることを知ると先に南へと向かい、行く先々でつり橋を破壊した。 さらに使者を成都に送って楊儀の罪を訴えた。
成都では魏延と楊儀双方の使者が来たので劉禅 はどちらを信じればいいのかと群臣に質問した。 蒋[王宛]も董允 も楊儀の肩を持ったので魏延の謀反とされた。
魏延は南谷口に陣を敷いて楊儀と対決した。しかし魏延の兵たちは非が魏延のほうにあることを知っていたので逃亡した。 魏延は息子ら数名をつれて漢中に逃げたが楊儀は馬岱を派遣して魏延の首を斬らせた。
これより以前、魏延は頭に角が生える夢を見ていた。 そこで夢占いをする趙直に意見を聞いたところ、 「麒麟は角を持っているがこれを使わない。戦わずして勝てる吉祥です。」とごまかして答えた。 魏延が去った後に「角という字は『刀』の下に『用いる』と書く。 頭の上に刀を用いるのだから不吉極まりない。」と言ったという。
三国志の作者である陳寿は「魏延は楊儀を取り除こうとして兵を挙げたのであり、 自分は諸葛亮に代わって蜀軍を率いる身であり、蜀に反逆するつもりは無かったのだ」 とわざわざ魏延伝の末尾で説明している。 (蜀書・魏延伝)
劉備の入蜀では多くの活躍を見せる。漢中攻撃においては曹操に矢を射掛け前歯を二本折り、 魏軍の戦意をくじいた。南蛮討伐にも従軍し活躍、 兀突骨相手には半月でわざと15回も負けを演じて見せ、油断を誘う。
諸葛亮の北伐にはすべて従軍し時に孔明に逆らいながらも王双を討ち取るなど活躍を見せる。 長安急襲策を進言して諸葛亮に却下されるのは「正史」と同じ。 諸葛亮が病気となり延命のために祈祷を行うが、 魏延が夏侯覇の攻撃を報告するためにその場に踏み込んだ際、 勢い余って本命灯を倒してしまったため、延命策は失敗してしまう。 諸葛亮の死後、魏延は馬岱と行動を共にして楊儀を討とうとするが、諸葛亮は楊儀に 「俺を殺せる者はいるか」と叫ばせろという策を授けており、 馬岱には「俺を殺せる者はいるか」と魏延が言ったら斬れ、という策を授けていた。 かくして魏延は馬岱に斬られた。夢占いの記事も「演義」に見える。
孔明は死に臨んで考えました。自分の後を継ぐ蒋[王宛]、費[ネ韋]、 たちでは大先輩である魏延が無理をして魏を討伐しようとするのを止めることは出来ない。 自分が死んだ後、蜀に内乱が起こっては困る。ならば蜀王朝を少しでも長く存続させるために、 残念だが魏延には死んでもらわなくてはならない。
こんなあたりではないでしょうか?魏延は劉備や諸葛亮のような先輩や同僚ならば押さえられましたが、 後輩に使われるのを良しとするような人格の持ち主ではなかったように思えます。 それが悲劇の原因だったように思えます。