呉懿 子遠(ごい しえん)


姓:呉
名:懿
字:子遠
生没年(?-237)
出身地:[亠兌]州陳留郡
親:
子:

劉焉に随行して蜀に入った。劉璋 の時代に中郎将となり、軍を率いてフ城で劉備と戦ったが降伏した。 護軍・討逆将軍となり、妹は劉備の妃となり、後の穆皇后となった。 221年には関中都督に昇進した。 228年[示β]山に出陣した際、人々は経験ある将軍として魏延 が呉懿を街亭の押さえとして推薦したが、諸葛亮馬謖を任命した。230年、魏延と共に南安郡に侵攻し、 費耀を破る戦果を上げ、左将軍・高陽郷侯に昇進した。 李厳を左遷する上奏文には上記に領荊州刺史という役職が加わった状態で名前を連ねる。 234年、諸葛亮が死去すると車騎将軍・漢中都督・雍州刺史に昇進し、済陽侯に封じられた。 王平を副将として漢中に駐屯した。237年に死去した。 (蜀書・楊戯伝)
『演義』では劉璋の部将として登場。劉循と共に[各隹]城を守るが 戦況が芳しくなく、出撃した所を趙雲に捕らえられる。他の降将と共に 降伏を呼びかけ、[各隹]城は降伏した。 北伐では諸葛亮に従って地味な活躍を続ける。 諸葛亮の死後は姜維と共に漢中の守りにつく。その後は登場しない。
『演義』では費耀を討ち取ったのは姜維の功績だということになっていますが、 『正史』では魏延と呉懿の戦績です。裴松之は本来なら伝が立つべき人物だが、 資料が無かったので書くことが出来なかったとしています。
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