関中の異民族や山賊を討伐し、関中に平和をもたらした。 羌族が来降する度に、郭淮はその者たちと会い、親類関係や家族のことを聞いた。 郭淮は次に会ったときもきちんと覚えていて、彼らの心情に沿った受け答えをしたため、 周囲の者は郭淮の明察ぶりを神の如く称えた。
228年、諸葛亮が[示β]山に出陣し、 馬謖を街亭に、高翔を列柳にそれぞれ派遣したが、 郭淮は高翔を打ち破った。 229年、諸葛亮が陳式を陰平に侵入させるとこれに立ち向かった。 しかし諸葛亮の援軍に敗れて退却、陰平を奪われる。 230年には侵攻した魏延に陽渓で敗北した。 231年に蜀軍が雍州に出陣すると、司馬懿に命じられて郭淮は 費曜と共に孔明を迎え撃ったが破れた。 その後司馬懿は堅く守って動こうとしなかったため、孔明は鹵城まで退却した。 魏軍が追撃して鹵城に出陣した際、兵糧の欠乏に苦しんだ。 関中からの大輸送計画がなされていたが、郭淮は威光と恩愛をもって羌族を帰順させ、 兵糧を供出させた。234年の蜀軍の侵入の際、当初司馬懿は渭水の南に駐屯していた。 郭淮は諸葛亮が北原に出ると予想して、先にこの地を固めるべきだと主張したが、 諸将は反対した。司馬懿は郭淮の意見に賛同して郭淮を北原に派遣した。 予想通り蜀軍は来襲し、準備が不充分だったにもかかわらず郭淮は蜀軍を撃退した。
240年、姜維が隴西に出陣するとこれを迎え撃って破った。 返す刀で羌族の迷当を討伐して帰順させた。 244年には夏侯玄に従って蜀討伐に従軍したが、 形成不利を悟って退却したため被害は少なく済んだ。
247年、涼州、雍州一帯で俄何、焼戈、 蛾遮塞、治無載らの諸羌族が一斉に蜂起した。 これと同時して姜維は雍州に攻めこんだ。 夏侯覇は為翅に駐屯していたが郭淮は姜維が最初に夏侯覇を攻撃すると読み、 諸将の反対を押し切って夏侯覇の救援に向かった。姜維は夏侯覇を攻撃したが郭淮の援軍が現れたので退却した。 そのまま進撃して俄何、焼戈らを斬った。翌年には蛾遮塞も敗走させ、治無載の妻子を捕らえた。 しかし姜維は治無載と合流して廖化に要害の地である成重山を守らせた。 諸将は兵力の分散を恐れて個々撃破策を主張したが郭淮は廖化を奇襲すれば姜維は慌てて救援に来て、 羌族と姜維の連携を断つことができると論じた。そこで夏侯覇を姜維に当たらせて、自らは廖化を攻撃した。 郭淮の予想通り、姜維は廖化の救援に向かい、結局蜀軍は雍州から退いた。
249年には征西将軍、都督雍涼諸軍事に命じられた。陳泰と共に蜀の 句安を攻撃して降伏させた。 最後は車騎将軍、陽曲侯にまで昇進し、255年に没した。貞侯とおくり名された。
妻は王凌の妹であった。彼女の事跡はこちらを参照してほしい。
文欽は反乱を起こした際に郭淮に共に決起するよう書簡を送ったが、 郭淮はそのとき既に死去していた。 (魏書・郭淮伝)
曹真が病気となると雍州の守りの後を継ぐ。[赤β]昭が重病と聞くと、 張[合β]を後任に任命したが時既に遅く、陳倉は蜀の手に落ちていた。 その後も主に司馬懿の命令により蜀軍と戦う。
諸葛亮の没後は姜維と何度も戦を交える。陳泰が蜀に呼応した羌族の迷当大王を捕らえ、 羌族にまぎれて郭淮らは姜維を攻撃した。 味方だと思っていた軍に攻撃をかけられて狼狽した蜀軍は逃走、 姜維は逃走中に矢をすべて無くしてしまった。郭淮が姜維を見つけて矢で射殺そうとするが、 なんと姜維は郭淮が射た矢をキャッチして、自分の弓につがえ、郭淮を射た。 郭淮は助け出されたが出血多量で死亡した。