中書令であった李豊は大将軍の司馬師 に信頼されていたが、内心では夏侯玄にも心を寄せており、 皇后の父である張緝と協力して司馬師を倒し、 夏侯玄に政治の実権を握らせようとたくらんだ。 254年2月、李豊はクーデターを計画したが露見して失敗に終わり、夏侯玄も連座して処刑された。
『世語』によれば夏侯玄が捕らえられると鐘毓が取り調べにあたった。 供述書を作るに至って夏侯玄は「私に何を供述せよというのか、君が書きたまえ」 ときっとなって鐘毓をなじった。 鐘毓は自分の書いた供述書を涙ながら夏侯玄に見せると、夏侯玄はただうなずいただけであった。 夏侯玄は鐘毓の弟の鍾会とは交際が無かったが、 鍾会はこの場で夏侯玄になれなれしい態度をとった。しかし夏侯玄は全く相手にしなかったという。
夏侯玄伝には夏侯玄と司馬懿との間に交わされた中正官の制度 (地方から人材を推薦する役人とその制度、後に科挙まで発展する人材登用の制度として中国史上重要) についての議論が多くのページを割いて紹介されている。 (魏書・夏侯尚伝)
「演義」では李豊、張緝のリーダー格として登場し、密勅を曹芳に求める。 しかし密勅を受けて宮中から出てくると武装兵を連れた司馬師に捕まってしまうというなんとも強引な展開。 しかし夏侯玄たちは死後も司馬師の夢に出て既に重い目の病を患っていた司馬師をさらに苦しめる。