222年、曹丕は宛まで赴き、夏侯尚と曹真に命じて朱然 が守る江陵を包囲させた。援軍の諸葛瑾とは長江をはさんで対峙した。 張[合β]が孫盛の守る中州にある砦を落したため 中州に軍を進めて城を一気に陥落させようとした。潘璋 は朱然に火をつけたいかだを上流から流して魏の浮き橋を焼き払うよう進言した。 これを察知した董昭が上奏を行い、詔勅によって魏軍は中州から撤退した。 潘璋の策は失敗に終わり、さらには十日後に急に長江の水かさが増したので董昭の正しさが証明された。 夏侯尚は夜襲をかけて諸葛瑾の軍を打ち破ったが、 両軍に疫病がはやったため半年かけても江陵を落すことが出来ず詔勅が降りて帰還した。 この功績で荊州の牧に昇進した。 その後、上庸方面の道路を整備して軍を進めた結果、山岳の住民や蛮民を数千戸も帰順させることに成功した。
夏侯尚にはお気に入りの妾がおり、曹氏一族の正妻をないがしろにして妾を溺愛した。 曹丕は刺客を放って妾を殺させてしまった。夏侯尚は悲嘆の余りボケてしまい、 葬儀の後に墓を掘り返して妾の顔を見るようなありさまであった。曹丕は「杜襲 が夏侯尚のことを軽蔑するのももっともなことだ。」と夏侯尚を非難したが、 それでも夏侯尚に対する寵愛が薄れることはなかった。 ほどなく死去し、悼侯とおくり名された。子の夏侯玄が後を継いだ。 (魏書・夏侯尚伝)
「演義」では夏侯淵の配下として最初は登場する。韓浩 とともに瓦口関を守る張[合β]の応援に向かったが、黄忠に打ち破られる。 定軍山まで落ち延びて再び黄忠と対戦するが今度は生け捕りにされてしまう。 夏侯淵側が捕虜としていた陳式 と人質交換を行った際には同時に走り出すと黄忠に矢を射掛けられ、 方に矢が刺さり味方陣内に転がり込む。その後上庸を攻撃して徐晃、 孟達と共に劉封を打ち破る。 夷陵の戦いの直後に夏侯尚は曹真と共に南郡を攻めたが陸遜 と諸葛瑾に返り討ちに遭って敗退した。