于禁と協力して昌[豕希]の反乱を苦戦の末、降伏させた。 その後も徐州、揚州、并州(徐晃を指揮)、雍州(朱霊 を率いて韓遂、楊秋を降伏させ、 梁興を斬る)と転戦し、 反乱をことごとく鎮めた。
涼州刺史の韋康が馬超に包囲されると救援に向かったが、 間に合わず韋康は殺害された。その上馬超に撃退され従属させていた[氏一]族が反乱を起こしたため長安に退却した。 後に姜叙らが馬超に対して反旗を翻すと曹操の指示を待つべきだという意見を却下して、 張[合β]を率いて救援に赴いた。張[合β]が馬超軍を打ち破ったので、 夏侯淵は一転して韓遂を攻撃して略陽城に追いつめた。堅固な城に羌族の精鋭が篭っており、 陥落させるのは難しいと考えた夏侯淵は、 羌族を討伐すれば韓遂が救援に赴けば野戦で捕らえることが出来るし、救援に赴かなければ羌族は 韓遂を見捨てていくだろうと考えて羌族を攻撃した。予想通り韓遂は救援に赴き、 夏侯淵はこれを大いに打ち破った。
涼州で河首平漢王を自称していた宋建を張既 とともに討伐して、彼を斬り殺した。曹操は「宋建が謀反を起こして30年がたっていたが、 夏侯淵は1回の戦闘でこれを滅ぼし、関右の地を闊歩して向かうとこ敵なしであった。 仲尼(孔子)も言っている、『わしとお前(弟子の子貢)は顔回には及ばない』と。」 という布令を出して夏侯淵を称えた。羌族と引見するときはいつも夏侯淵を脅しの材料に使ったという。
漢中が平定されると夏侯淵は漢中の守備として残され、征西将軍に任命された。 張[合β]、徐晃に巴を攻撃させ、一時は占領したが、張飛の反撃に遭ったため撤退した。 その後劉備が漢中に侵攻し、にらみ合いは何年も続いた。 219年、劉備軍は夏侯淵の陣営の囲いに火を放ち、 総攻撃をかけてきた。夏侯淵は張[合β]に東の囲いを守らせ、自分は軽装の兵士を率いて南を守った。 張[合β]が敗北したため夏侯淵は手勢の半分を張[合β]の救援に向かわせたが、 そこを黄忠に攻撃されて討ち取られた。
曹操は連戦連勝の夏侯淵に「将たる者、臆病な時もなければならない」と戒めていたという。 夏侯淳の従兄弟であり、曹操の妻の妹を妻としていた。愍侯とおくり名された。 (魏書・夏侯淵伝)
「演義」では曹操の挙兵に夏候淳と共に駆けつけるところで登場する。 董卓、呂布、袁紹 との戦いで随所で活躍するが、一騎打ちで敵将を討ち取るような派手な活躍は 劉備と汝南で戦った際に[龍共]都を、 潼関で馬超と戦った際に成宜を討ち取った程度である。 存在感の割には地味なキャラクターである。 張魯討伐戦では油断して初戦は奇襲を受けて敗退するがその後は張[合β]と共同で活躍し、 [广龍]徳を捕らえる。 その後漢中の守りにつき、張[合β]に巴を攻めさせたが張飛に撃退された。
蜀の黄忠は天蕩山を攻撃して張[合β]を打ち破り、さらに定軍山を攻撃しようとした。 諸葛亮は「夏侯淵は張[合β]の比ではない、手強いぞ」と警告した。 夏侯淵は計略で陳式を捕虜とし、 夏侯尚との人質交換を行ったが、 黄忠が夏侯尚に矢を射掛けたため黄忠に斬りかかる。 しかし蜀軍が総攻撃の勢いを見せ、部下が銅鑼を鳴らしたため退却した。 法正の発案により蜀軍が定軍山の西側の高い山を攻め取ると劣勢に立たされ、 総攻撃を受けて黄忠に討ち取られた。
管輅は「西蜀で兵が境を犯し、定軍の南で一股を失う」と予言していた。 曹操は心配して曹洪を援軍として送っていたが、 夏侯淵の死を防ぐことは出来なかった。
蜀書を読んでいると孔明の出師の表で夏侯淵を討ち取ったことが述べられ、 その後も蜀の文官の上表などに度々この事績が出てきます。 蜀にとっては夏侯淵を討ち取ったことが華々しい勝利として映っていたようです。 このことも夏侯淵が魏を代表する名将だったことを裏付けているのでしょう。