陳倉に城を築くよう曹真に命じられた直後の228年、 諸葛亮が蜀軍を率いて[赤β]昭が築いた陳倉を包囲した。 孔明は[赤β]昭と同郷の[革斤]詳に城外から[赤β]昭を説得させた。 [赤β]昭は「君は魏の法律も私の性格も知っているはずだ。君は何も言う必要はない。 私は死を賭して戦うだけだ。諸葛亮にそう伝えてくれ。」と物見櫓から言い返した。 孔明はもう一度[革斤]詳を派遣して多勢に無勢だから無駄に自滅するな、と説得させた。 すると[赤β]昭は「私の考えは変わらない。私は君を知っているが矢は君を知らないぞ。」 と言って矢を弓につがえた。
蜀軍数万に対してわずか千人余りの兵が守る城であり、援軍もしばらくは到着しないことから、 孔明は城に雲梯(高いはしごのついた車)や衝車(戦車)を用いて攻めたてた。 しかし[赤β]昭は雲梯には火矢を射掛けて燃やし、衝車には縄で縛った石臼を落して破壊した。 次に孔明は高さ百尺(200メートル強)の井欄(井戸の形をした建物)を建て、その上から矢を城内に射掛け、 その間に堀を土で埋めて城壁をよじ登ろうとした。[赤β]昭は城内にもう一重の城壁を作って対抗した。 また孔明がトンネルを掘って城内に侵入しようとすると、[赤β]昭も城内からトンネルを掘り、 孔明のトンネルを横から切断した。二十日余りの攻防戦の末、孔明は城を落すことが出来ず、 援軍も到着したため蜀軍は退却した。 帰還して曹叡に引見すると、曹叡は孫資に向かって 「きみの故郷には君と同じような素晴らしい人物がいて、大将として光り輝いている。朕には何の心配もないぞ。」 と言った。
間もなく死去したが息子の[赤β]凱に「私は将軍になったが、将軍なぞ大したものではないことを知っている。 私は何度も墓を暴いて棺の木を武器に作り替えたから手厚い埋葬も意味のないことだと知っている。 おまえは今すぐこの官服に包んで私を埋葬せよ。生きている人間だけに居場所があるのだ。 先祖と離れて埋葬されても気にすることはない。」と遺言した。 (魏書・明帝紀、蘇則伝)