曹操は馬超 を渭水で破ると安定まで追撃した。馬超は逃亡して羌族たちを味方につけていた。 冀州で田銀 らの反乱が起こっていたので曹操は[業β]に戻ろうとしていたが、楊阜は 「馬超は韓信・鯨布のような武勇を持ち、羌族を信服させています。 もしこの大軍を[業β]に戻すのであれば十分な備えを残していかないと、 再び馬超により隴山一帯の諸郡は馬超に奪い返されてしまうでしょう。」と進言した。 曹操は楊阜の言葉を最もだと思ったが、軍を急ぎ帰還させてしまい結局十分な備えを行わなかった。
楊阜の予想通り馬超は羌族と共に大反乱を起こし、冀城以外の郡県はすべて馬超になびいて孤立した。 楊阜は郡民と一族千人余りを率い、従弟の楊岳 に城壁の上に偃月の陣を敷かせ、正月から八月まで抵抗を続けた。しかし救援は来ず、 送った使者の閻温 も馬超に捕らえられて殺害されたため、韋康らは馬超への降伏を考えた。 楊阜は涙ながらにこれをいさめたが、結局馬超に降伏した。 馬超は冀城に入ると張魯からの援軍の部将である楊昂に命じ、韋康らを殺させた。 楊岳は捕らえられて軟禁された。
楊阜は主君の仇を討つ機会を狙っていた。その頃楊阜の妻が死去し、 葬儀のために休暇を取って姜叙の家に行くと、 姜叙とその母に向かって冀城での篭城戦のことを語りながら号泣し、 馬超を殺して主君の仇を討つべきだと説いた。姜叙の母はこれを聞いて心を高ぶらせ、 息子に楊阜とあだ討ちの計画を練るよう命じた。そこで同郡出身の姜隠、 尹賞、趙昂、姚瓊、孔信、武都出身の李俊、王霊と結託し、馬超討伐の段取りを決めた。 従弟の楊模を冀城に送って楊岳と話をさせ、安定出身の梁寛、 南安出身の趙衢、[广龍]恭らと手を結んだ。
212年9月に楊阜と姜叙が鹵城で馬超に叛旗を翻すと、 馬超は楊阜の討伐に向かうため冀城を出た。 すると趙衢、梁寛は計画通り楊岳を解放して冀城を占拠し、 馬超の妻子を捕らえて殺害した。本拠を失った馬超は鹵城を去って歴城に向かった。 歴城は馬超の軍を見て味方だと思ったため、馬超は歴城に乱入して姜叙の母を殺害し、 城を焼いて去った。楊阜は馬超と戦って体に五箇所の傷を受け、一族の者七人を失ったが、 馬超を漢中に追いやることに成功した。
曹操は馬超討伐の功績で楊阜ら11名を列侯に取り立て、楊阜には関内侯の爵位を与えた。 漢中征伐の際には益州刺史に任命され、帰還すると金城太守、次いで武都太守に任命された。 曹洪が下弁に侵攻した馬超・張飛 を破ると曹洪は酒宴で歌姫に薄い絹を着せ、 足を踏み鳴らして太鼓を叩かせた。一同はげらげら笑っていたが楊阜は 「男女のけじめは国の重要な道徳ですぞ」と激しくなじったため、 曹洪らはショーを止めさせて楊阜に謝った。後に蜀の下弁への圧迫が強まると、 郡民一万余りを連れて天水・京兆に移住させた。
曹叡に時代に都に呼ばれて城門校尉、将作大匠、後に少府となった。 宮殿の造営、曹叡の狩りや服装、曹真の遠征など様々な上奏を行った。 曹叡はこれらの上奏の筋道の正しさと口調に恐れ入ることが多かった。 楊阜の朝廷内での直言は他の廷臣の反発を受けることもしばしばで、 楊阜は度々官を辞任することがあった。 235年ごろ、たまたまそのような事情での蟄居中に死去した。 (魏書・楊阜伝)
ただしこれは敵討ちであると同時に、 雍州における親曹操派の豪族と反曹操派の豪族の争いであるとも言えます。 『演義』では韓遂の「旗本八騎」などと称される 楊秋らが中央からの独立を志向した一方、 楊阜らは中央に従って勢力を維持しようという方針を持った豪族であったのでしょう。