馬超が冀県を包囲すると切羽詰った涼州刺史の 韋康は馬超への降伏を考えた。 趙昂はこれを妻の王異の勧めもあり楊阜らと共に諌めたが聞き入れられず、 韋康は結局馬超に殺害された。息子の趙月は人質に取られて南鄭に送られた。 しかし馬超は人質を取っても趙昂のことが信用出来ずにいた。 密かに楊阜の馬超に対する反乱の策謀に従っていた趙昂は 妻の王異に馬超の妻の楊氏と親しくさせ、それにより馬超の信頼をも得た。
かくして214年(212年説も)、楊阜・姜叙らの策に従った蜂起が成功し、 馬超を破り、馬超の妻子を捕えた。 馬超が張魯の助けを得て再び攻めてくると趙昂は [示β]山に王異と共に籠城して一ヶ月、張[合β] の援軍が来るまで耐え抜いた。 (魏書・楊阜伝)
「演義」では姜叙の部下の統兵校尉として登場。楊阜の策略に参加する際に 息子の趙月は馬超の副将であったため、妻の王氏とどうすべきか相談したが、 息子の命を諦めてでも主君の仇を討つべきだとの意見に従って協力した。 計略により楊阜らと共に馬超を破るが、妻子を殺されて怒りに燃える馬超は 歴城に入って趙昂・尹奉の一族を姜叙の母と共に皆殺しにした。