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後に郡が梁双と和解したので趙昴は役人を送って彼女を迎えさせた。 彼女は娘に向かって「婦人は使者の付き添いや印がないと外出はしないもの、昭姜は流れに沈み、 伯姫は焼かれるのを待った。(戦国時代、楚の昭王の妻貞姜は夫と遊びに出かけ一人で後に残った。 すると洪水が起こり昭王は使者を送って迎えようとしたが印を忘れたため彼女は同行を拒み、溺れ死んだ。 魯の夫人伯姫は火事に遭ったが守役の侍女がいないため逃げることを拒み焼死した。) 私はこのことを立派だと思う。あなたが可哀相でいままで生きてきたけれど、もう生きていることはない。」 と言って毒薬を飲んだ。そのときちょうど解毒剤があったので一命を取りとめ、無事趙昴の元に戻ることができた。
そののち、趙昴が冀県に赴任していたときのこと、馬超が冀県を攻撃した。 王異は弓矢を取り城の防衛に参加し、自分の衣服に付いている玉や環を褒美として兵士に与えた。 城主の韋康が馬超と和議を結ぼうとすると趙昴は反対したが聞き入られなかった。 家に帰ってそのことを王異に話すと、「臣には国のためなら専断をしても良いという建前がある。 節義を全うして死にましょう。」と答えた。しかしそれより早く韋康は降伏していた。
馬超は約束を破って韋康を殺害した。息子の趙月も人質に取られてしまった。 馬超の妻の楊氏は王異の節義ある行動を聞いていたので彼女との交際を求めた。 王異は楊氏の信頼を得て馬超と趙昂の関係をも取り持つことに成功した。 趙昂が楊阜 と共に馬超を討ちに立ち上がった際も息子の趙月のことはあきらめざるを得ない、と夫を励ました。 楊阜らは馬超を撃退し、その妻子を殺したので趙月は馬超に殺されてしまった。 その後も馬超は張魯の助けを得て祁山に再び趙昂を包囲するが、 王異は夫と共に城の内外で戦い、城を守りきった。
それにしても1800年前の中国と現代日本の価値観の違いを強く感じさせます。 自分が産んだ息子を犠牲にしてまでも夫に忠義を求めた点に私は違和感を感じました。 想像も多分に含まれるのですが、おそらく王異は子供より親を重く見る儒教的な 価値観に基づいて夫を励ましたと思います。そして裴松之も儒教的価値観として 賞賛すべき事跡としてこの逸話を『三国志』の注に挿入したのだと思います。 『後漢書』の「烈女伝」や夏侯令女の逸話を 読んでいても似たような違和感を感じる場合があります。 歴史に接する際にこのように時代、国、価値観の違いを感じ取ることが 歴史を学ぶ意味のひとつではないかとふと思いました。