霊帝の治世の末期、涼州刺史の耿鄙が不正な官吏を信任したため州の政治は乱れ、 王国は周辺の羌族たちと共に反乱を起こした。 涼州では平民の中から武勇ある者を募集して反乱の鎮圧を行ったが、 馬騰はこのとき手柄を立てて出世した。 辺章、韓遂らと共に旗揚げし、192年には長安に軍勢を率いて赴いた。 漢王朝は韓遂を鎮西将軍に任命して金城に返し、馬騰を征西将軍に任命して[眉β]に駐屯させた。 初平年間(190-194)には征東将軍に任命された。 侍中の馬宇は劉焉とその息子劉範らと結託して李[人寉]に対して反乱を起こし、 馬騰の軍を呼び寄せて長安を攻撃したが、計略が漏れて攻撃に失敗し、馬騰は涼州に逃げ帰った。
韓遂とは義兄弟の契りを結び、親しかったが後に関係が悪化し、 韓遂が馬騰の妻子を殺害すると二人の間には絶え間なく争いが続いた。 建安の初年(196?)、司隷校尉の鐘[揺系]と涼州牧の韋端が使者としてこの地に赴き、 利害を説いて二人を和解させた。馬騰と韓遂は息子を人質として曹操の元に送った。 以後馬騰らの善政により隴西一帯は安定した。 袁尚は郭援と匈奴の単于に河東郡を攻撃させ、馬騰は彼らに協力するよう内諾していた。 張既と傅幹は馬騰を説得して曹操に寝返らせ、馬騰は馬超を援軍として鐘[揺系]の元に派遣した。 208年、衛尉として中央に召し出された。馬騰は自分の年齢を考え、 長男の馬超に軍を任せ、[業β]に赴いた。 (蜀書・馬超伝)