劉協 伯和(りゅうきょう はくわ)


姓:劉
名:協
字:伯和
生没年(180-234)
出身地:司州河南郡?
親:霊帝王美人
子:劉馮(南陽王)、劉煕(済陰王)、劉懿(山陽王)、劉[L貌](済北王)、劉敦(東海王)、 二人の娘(禅譲後、曹丕の後宮に入った)、劉曼(娘、長楽郡公主)
妻:伏皇后曹節(曹皇后)、 董貴人
霊帝の中子(次男?)として生まれた。霊帝は生まれた子供が自分に似ていたので、 「合う」という意味の「協」という名前を付けた。 霊帝が崩御し兄の少帝が即位すると渤海王に封じられ、次に陳留王に封じられた。

189年8月、何進率いる兵たちが宮殿に押し入り、宦官たちを殺し始めると、 14歳の少帝と9歳の陳留王は宦官の段[王圭]らに連れられて徒歩で脱出した。 追っ手が迫り宦官たちが黄河に身を投げると二人は宮殿に戻ろうとし、 夜の道を蛍の光を頼りに歩いた。中部堰の[門文]貢が二人を保護し、 大臣の崔烈が出迎えた。董卓 はいち早くこの一行を捉え、護衛についた。 このとき董卓は少帝に経緯を聞いたが少帝は恐怖の余り話すことが意味をなさなかった。 陳留王は代わりに状況を明快に説明し、董卓はこのことに感心した。 後に董卓は少帝を帝位から降ろし、陳留王を擁立した。後の献帝である。

189年9月:即位(9歳)する。董卓は何太后を永安宮に移した。 昭寧の年号を改めて永漢とした。董卓は何太后を殺害した。 劉虞を大司馬、楊彪を司空、 黄[王宛]を司徒に任命した。 董卓は自ら太尉となり鉄鉞・虎賁を加えられた(独断で人を処刑できるという意味)。
189年10月:白波賊が河東郡に侵入したので董卓は部将の牛輔 を派遣してこれを討たせた。
189年11月:董卓は相国となった。
189年12月:黄[王宛]を太尉、楊彪を司徒、荀爽 を司空に任命した。詔を発し、光熹・昭寧・永漢の三つの元号を廃して中平六年に戻した。

190年1月:山東の諸将が袁紹 と盟主として董卓を討つために挙兵した。董卓は少帝を殺害し、 さらに城門校尉の伍瓊・督軍校尉の周[王必] を殺害した。黄[王宛]・楊彪を免官とし、趙謙を太尉に、王允を司徒に任命した。 董卓は長安への遷都を行い、民衆をも洛陽から移住させた。
190年3月:帝は長安の未央宮に入った。董卓は太傅の袁隗、 太僕の袁基とその一族を皆殺しにした(反董卓の盟主が袁紹であったため一族を殺した)。
190年6月[禾中]払を司空に任命した。 大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡母班、将作大匠の呉脩、越騎校尉の王[王鬼]らに関東の平定を命じた。 しかし後将軍の袁術、河内太守の王匡 はこれらを捕らえて殺害した。董卓は流通していた五銖銭を集めて潰して改め、新たに小銭を鋳造して配布した。
190年11月孫堅が荊州刺史の王叡、 南陽太守の張咨を殺害した。

191年2月:董卓は自ら太師となった。袁術は孫堅を送って董卓の部将である 胡軫と戦わせた。孫堅は陽人で胡軫を打ち破った。 董卓は洛陽の代々漢帝の墓を発掘した。
191年7月:司空の[禾中]払を免官した。淳于嘉を司空に任命した。 趙謙が辞職し、代わりに馬日[石單]を太尉に任命した。
191年10月:董卓は衛尉の張温を殺害した。
191年11月:青州の黄巾賊が太山郡に侵入した。太山太守の応劭 はこれを迎撃して討ち破った。次に黄巾賊は渤海郡に侵入した。公孫[王贊] がこれを討ち破った。

192年1月:袁術は孫堅を派遣して荊州刺史の劉表 を攻撃させたが孫堅は戦死した。袁紹と公孫[王贊]は冀州の界橋で戦い、袁紹が勝利を収めた。
192年4月:帝の病気が回復したお祝いの場の未央殿で呂布 は董卓を誅殺した。董卓の一族を皆殺しとした。王允を録尚書事に任命し、王允が朝廷の実権を握った。 張[禾中]を派遣し山東を慰撫させた。
192年5月皇甫嵩を車騎将軍に任命した。 董卓の部将であった李[イ寉]郭[シ巳]張済樊稠が長安を攻撃した。
192年6月:長安が落城し太常の[禾中]払、太僕の魯旭、大鴻臚の周奐、 城門校尉の崔烈、越騎校尉の王[斤頁]らが戦死した。一万人以上の死者が出た。李[イ寉]らは将軍となり、 黄[王宛]、王允を殺害した。王允はその一族も皆殺しにされた。趙謙を司徒に任命した。
192年7月:馬日[石單]を太傅に任命し録尚書事に兼任させた。
192年8月:馬日[石單]と太僕の趙岐に命じて諸国を慰撫させた。 彼らは翌年袁紹と公孫[王贊]を和解させた。 皇甫嵩を太尉に任命した。 司徒の趙謙が辞職した。
192年9月:李[イ寉]は自ら車騎将軍となった。郭[シ巳]は後将軍、 樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となった。張済は長安を出て、弘農に駐屯した。 淳于嘉を司徒に楊彪を司空に任命し、共に録尚書事も兼任させた。
192年12月:皇甫嵩を免官とし、周忠を太尉に任命し録尚書事と兼任させた。

193年3月:袁術は揚州刺史の陳温を殺害し、淮南に割拠した。
193年6月:周忠を免官し、朱儁 を太尉に任命し録尚書事と兼任させた。下[丕β]の賊である闕宣が天子を自称した。
193年10月:楊彪を免官として趙温を司空に任命した。 公孫[王贊]は大司馬の劉虞を攻撃して打ち破り殺害した。
193年12月:趙温を免官として張喜を司空に任命した。

194年1月:大赦を行い、興平と改元した。この月に元服した。
194年3月馬騰韓遂 が反乱を起こし、劉範[禾中]劭 もこれに呼応した。しかし郭[シ巳]・樊稠はこれらを打ち破った。
194年6月:涼州の四郡(金城・酒泉・燉煌・張掖)を分離して廱州とした。
194年7月:朱儁を免官し、楊彪を太尉に任命し録尚書事と兼任させた。 長安・洛陽周辺の干ばつがひどく、雨乞いを行い罪の軽い囚人を解放した。 米一斛は五十万銭、豆や麦一斛は二十万銭にまで高騰し、人は互いに食い合った。 献帝は侍御史の侯[シ文]に命じ、太倉の米や豆を出して飢えた人のために粥を作らせたが、 数日経っても死ぬ者は続出した。帝は施しに虚偽があるのではないかと疑い、 自ら米の量を計って粥を作らせたところ、施しの不正を発見した。 そこで侍中の劉艾に侯[シ文]を尋問させ、人々は彼を処刑すべきだと論じた。 しかし献帝は棒打ち五十回の刑とした。献帝の施しにより多くの人命が救われたという。
194年10月:淳于嘉が辞職したため、趙温を司徒に任命し録尚書事と兼任させた。
194年:この年、孫策は揚州刺史の劉ヨウ を追い出して会稽を占領し、会稽太守となった。太傅の馬日[石單]が寿春で死去した。

195年2月:李[イ寉]は樊稠を殺害し、郭[シ巳]と戦闘を行った。
195年3月:李[イ寉]は献帝を脅迫して自分の陣営に移らせ、宮殿に火をかけた。
195年4月:貴人だった伏氏を皇后とした。郭[シ巳]と李[イ寉]の戦闘の中で、 御所にまで矢が飛んでくる事態となった。
195年5月:李[イ寉]は自ら大司馬となった。
195年6月:張済は弘農から戻り、李[イ寉]と郭[シ巳]を和平を仲裁した。
195年7月:献帝は楊定を後将軍、 楊奉を興義将軍、董承 を安集将軍として車駕を護衛させ、長安を脱出して東に向かった。 張済を驃騎将軍に任命した。張済は陝に帰って駐屯した。
195年8月:一行は新豊に駐屯した。
195年10月:郭[シ巳]は部下の五習に献帝を攻撃させた。 楊定・楊奉はこれを打ち破った。華陰に駐屯した。張済は献帝に背いて李[イ寉]らに味方した。
195年11月:東澗にて李[イ寉]らの軍に攻撃されて敗退した。 光禄勲の[登β]泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、 歩兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射声校尉の沮儁などが殺された。 一行は曹陽に退き、田畑の中で野営した。 楊奉・董承は白波賊の胡才李楽韓暹およ及び匈奴の左賢王の去卑 を味方にし、軍を率いて帝を迎え、さらに李[イ寉]らと戦ってこれを破った。
195年12月:再び李[イ寉]の攻撃を受けて大敗し、多くの宮廷人たちが命を落とした。 黄河を渡り安邑に駐屯した。
195年:この年袁紹は部将の麹義 を派遣して鮑丘にて公孫[王贊]を打ち破った。

196年1月:大赦を行い建安と改元した。
196年2月:韓暹が董承を攻撃した。
196年7月:一行は洛陽にたどり着き、元の趙忠の邸宅に入った。
196年8月:南宮の楊安殿に移った。張楊を大司馬、 韓暹を大将軍、楊奉を車騎将軍にそれぞれ任命した。 宮殿は焼き尽くされていたため、百官たちは土塀の間で寝起きした。 周辺の州や郡に兵を擁していたが、献帝たちに食糧を届けることはなかった。 群臣は飢え、みな自ら食料を探して食べた。土塀の間で餓死する者や兵士によって殺される者が続出した。 曹操は洛陽に入ると自ら司隷校尉・録尚書事となり、 侍中の臺崇、尚書の馮碩らを殺し、都を許に遷した。献帝も曹操の陣営に入った。
196年9月:太尉の楊彪、司空の張喜が辞職した。
196年11月:曹操は自ら司空および車騎将軍となり、百官を集めて自ら政権を握った。

197年春:袁術は自ら皇帝を称した。
197年3月:袁紹は自ら大将軍を称した。
197年:この年は氾濫や蝗の被害が発生した。袁術は陳王の劉寵を殺害した。 孫策は献帝に貢物を送ってきた。

198年4月:謁者の裴茂に中郎将の段[火畏] を率いさせて李[イ寉]を討った。その首は高所に掲げられたという。呂布が徐州で反乱を起こした。
198年11月:張楊は部下に殺害された。
198年12月:曹操が呂布を徐州に討ち、これを斬った。

199年3月:袁紹は易京に公孫[王贊]を攻め、これを殺害した。 董承を車騎将軍に任命した。
199年6月:袁術が病死した。

200年1月:車騎将軍の董承、偏将軍の王服、 越騎校尉の[禾中]輯が密詔を受け、曹操を誅殺しようとしてたが事が漏れた。 曹操は董承らを捕らえ、三族までを滅ぼした。
200年7月:劉馮を南陽王としたが、死去した。
200年9月:詔勅を出し、三公には二人、 九卿・校尉・太守・相には一人、それぞれ孝行で知られる人物を推薦させた。 袁紹は官渡にて曹操に打ち破られた。
200年:この年孫策が死去し、孫権が後を継いだ。

202年5月:袁紹が死去した。于[門眞]国から使者がやってきて人に慣れた象を献上した。

203年10月:公卿たちに北郊(天子が夏至に地を祭る場所)で冬を迎えさせる、 総章(音楽官の名)に八[イ肖](八列)の舞をさせる、司直を置き都の役人を監督させる、 など戦乱によって失われていた古いしきたりを復活させた。

204年8月:曹操は[業β]で袁尚を打ち破り、 冀州を平定して冀州牧を兼任した。

205年1月:曹操は袁譚を打ち破り、これを斬った。
205年4月:黒山の賊の首領の張燕は部下を率いて投降した。

206年3月:曹操は并州にて高幹を打ち破った。
206年7月:武威太守の張猛は涼州刺史の 邯鄲商を殺害した。
206年:斉、北海、阜陵、下[丕β]、常山、甘陵、済北、平原の八国を除き、郡とした。

207年8月:曹操は柳城にて烏丸のトウ頓を打ち破った。
207年11月:遼東太守の公孫康は袁尚、 袁煕を殺害し、その首を曹操に献上した。

208年1月:司徒の趙温を免官とした。
208年6月:三公を廃止して丞相、御史大夫を置いた。曹操は自ら丞相となった。
208年8月[希β]慮を御史大夫に任命した。 曹操は太中大夫の孔融を殺し、その一族を滅ぼした。 荊州刺史の劉表が死去し、劉[王宗]が後を継いだ。 劉[王宗]は曹操に降伏し、荊州を明け渡した。
208年10月:曹操は船団を率いて孫権を討ったが、 孫権の部将の周瑜は赤壁・烏林にて曹操を打ち破った。

211年9月:曹操は渭南にて馬超・ 韓遂らと戦い、これらを打ち破った。

212年5月:衛尉の馬騰を誅殺し、その三族を滅ぼした。
212年8月:馬超が涼州を攻撃し、刺史の韋康を殺害した。
212年9月:皇子の劉煕を済陰王、劉懿を山陽王、劉[L貌]を済北王、劉敦を東海王とした。

213年1月:いにしえの禹の行政に従い、中国全土を九州 ([亠兌]・豫・青・徐・荊・揚・冀・益・雍)に再編成した。
213年5月:曹操は自ら魏公となり、九錫を加えられた。

214年5月劉備劉璋 を降し、益州を平定した。
214年8月:曹操は夏侯淵を派遣し、枹罕にて 宋建を討ち、これを斬った。
214年11月:曹操は伏皇后とその二人の息子、およびその一族を処刑した。

215年1月:曹氏を皇后にたてた。
215年7月:曹操は張魯を降伏させ、漢中を平定した。

216年4月:曹操は自ら魏王となった。
216年7月:匈奴の南単于が来朝した。
216年:この年曹操は琅邪王の劉煕を殺して国を除いた。

217年6月華[音欠]を御史大夫に任命した。
217年:この年疫病が大流行した。

218年1月:少府の耿紀、司直の韋晃、 金[ネ韋]らが兵を挙げ、 曹操を誅殺しようとしたが失敗して三族を滅ぼされた。

219年5月:劉備が漢中を制圧した。
219年7月:劉備は自ら漢中王を称した。
219年11月:孫権は劉備が占領していた荊州を攻撃し、これを制圧した。

220年1月:曹操が死去し、曹丕が後を継いで魏王となった。
220年3月:延康と改元した。
220年10月:献帝は皇帝の位を曹丕に譲り、山陽公に封じられた。 ここに漢王朝は滅びる。

河内郡山陽県に一万戸を与えられ、山陽公の称号を与えられた。 漢王朝の暦を使うことを許され、天子の儀礼を行って天を祭ること、魏の皇帝に上書する場合は 「臣」と名乗らなくても良いこと、などを許された。

234年に死去し、漢孝献皇帝とおくり名されて漢の礼式を用いて葬られた。 (後漢書・献帝紀)


『演義』でも董卓、李[イ寉]、曹操と次々と現れる権力者に擁かれた傀儡君主として描かれる。 董承に曹操暗殺の密書を渡した際は、事前に叔父の伏完 や伏皇后と相談したという設定になっており、後に伏完や伏皇后が殺される伏線となっている。 また曹操に保護されていた劉備のことを劉皇叔と呼んだりするなど脚色が加えられている。 曹丕への禅譲劇もかなり露骨に華[音欠]、王朗 らが譲位を迫ったように描き、漢王朝復興を目指した劉備が善玉として浮かび上がる方式となっている。
聡明な少年として描かれ、董卓は暗愚な少帝を退けて献帝を帝位につけます。 しかしその後は気弱な操り人形として歴史の荒波に翻弄され続けます。 特に長安を脱出して洛陽に向かった際には大臣や高官、女官たちがバタバタと死んで行き、 味方に裏切られたりなど散々な目に遭います。曹操に保護された後は再び抑圧され、 何度か曹操誅殺を試みますが成功せず、結局漢王朝四百年の最後の皇帝となりました。 しかし献帝についての文章を読んでいくと洛陽への苦難の旅が一番彼が生き生きと 描かれているように感じるのは私だけでしょうか?

そして禅譲の後は山陽公としてひっそりと曹操の娘である曹節と暮らし、 曹丕よりも長生きして234年に死去します。偶然にも諸葛亮が五丈原で死去したのと同じ年でした。


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