袁尚 顕甫(えんしょう けんほ)


姓:袁
名:尚
字:顕甫
生没年(?-207)
出身地:?
親:袁紹
子:

袁紹の子。その美貌を愛し、袁紹は後継者にしたいと思っていたが、 その考えを正式に発表する前に袁紹は病死した。袁紹の幕僚の審配逢紀は袁尚を擁立し、郭図 辛評は嫡子の袁譚を擁立したことから対立が起こった。 曹操が黎陽へ攻めてくると袁譚が出陣したが袁尚は兄に兵を少ししか与えず、 逢紀を監視役として送った。袁譚の増兵の要求に審配らは相談の上、拒絶したため逢紀は殺された。 曹操が黄河を渡ると袁譚は援軍を袁尚に要請した。袁尚は派遣した兵を取られるのを恐れ、 自ら出陣して兄と共に曹操と対峙したが半年後敗退し城に篭った。 曹操が劉表 を攻めに河北を去ると袁譚との抗争が始まり袁譚を打ち破って平原まで退却させて激しく攻めたてた。 袁譚は曹操と結び、曹操が再び黎陽に迫ったため袁尚は[業β]に戻った。 このとき配下の呂曠呂翔が曹操に寝返った。 曹操が帰ると再び平原を攻撃したが曹操は取って返し、 審配が篭る[業β]を包囲した。救援に向かった袁尚は曹操に撃退され、部下の裏切りも続き中山に落ち延びた。 激戦の末[業β]は陥落し、審配は斬首された。その後も袁譚に攻撃され、 軍勢をすべて失い幽州の弟の袁熙の元に 身を寄せた。しかし袁熙の部下も曹操に寝返ったため幽州にもいられなくなり、 袁尚は袁熙と共に烏丸族の協力を得て柳城で曹操と対戦したがまたも敗れて遼東の 公孫康を頼った。ここで公孫康にだまし討ちにされて首は曹操に届けられた。

「演義」では父に従って倉亭で曹操軍と戦い史渙 を討ち取るなど勇猛な武将としても描かれている。公孫康を頼ると曹操の参謀の 郭嘉の予言通り、首が送られてきた。


ハンサムで血気盛んな青年というイメージが先行しますが、「正史」を読んでいると不思議と 兄の袁譚にそれほど敵意を抱いているようには思えません。 母を含む周囲の思惑に乗せられて、讒言やウソが渦巻く中、お互いをを信じるべきか否か悩む兄弟、 というストーリーもありなのではと思います。そのうちこのHPで書いてみようかな。
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