公孫[王贊]が韓馥 を攻撃する意図を見せ、韓馥がこれに恐れを抱いているのを見て袁紹に、 公孫[王贊]に冀州を攻撃させ韓馥にこのことを伝えて冀州を譲らせれば良い、 という策略を進言した。袁紹は逢紀の言うとおりに冀州を手に入れた。
官渡の戦いでは審配と共に十万の軍勢の事務を統括した。 元々は逢紀と審配仲が悪かったのであるが、ある人が審配のことを讒訴すると逢紀は 「審配は天性が激しく率直で、節操のある者です。彼を疑うのは良くありません。」 と進言した。袁紹が「君は審配を憎んでいたのではないか?」とたずねると 「個人的感情によって争ったことはありますが、今は国家のことを思って言っております。」 と答えた。袁紹は逢紀のことを誉め、審配とも仲直りが出来たという。
田豊が公明で率直であることを嫌い、袁紹に田豊のことを謗り、 このことで袁紹と田豊の仲が上手くいかなくなったという。 官渡で袁紹が敗北した際、袁紹は「田豊の策を聞いていればこのような結果にはならなかった。」 と嘆いたが、逢紀は「田豊はそれみたことかと自分の予言が当たったことを喜んでいます。」 と言ったため、袁紹は投獄していた田豊を殺害した。
袁紹が死去すると審配と共に後継者に袁尚を擁立した。 曹操が黎陽に攻めてくると袁譚 はこれを防ぐために袁尚に援軍を求めた。 袁尚はわずかな軍勢に逢紀を監督として付けて寄越しただけであった。 激怒した袁譚は逢紀を殺害した。
荀[或〃]は逢紀を 「向こう見ずで自分の判断によってのみ動く」と評している。 (魏書・袁紹伝)