韓馥 文節(かんふく ぶんせつ)


姓:韓
名:馥
字:文節
生没年(?-?)
出身地:豫州潁川郡
親:
子:

御史中丞であったがらに推薦されて冀州の牧となった。 着任した190年、袁紹を盟主とする反董卓の連合軍に参陣した。 怒った董卓は周らを処刑した。 冀州は人口の多い豊かな土地であったが韓馥は渤海太守の袁紹の挙兵を恐れ、 部下を派遣して袁紹を監視させ、挙兵を食い止めようとした。 東郡太守の橋瑁は三公の文書を偽造して董卓の悪行を並べ立て、 文書を州郡に回した。 これを読んだ韓馥は「袁紹につくべきか、董卓につくべきか?」 と群臣に問うた。従事の劉子恵は 「今兵を挙げるのは国のためです。どうして袁だの董だの迷うのですか?」 と言った。 韓馥は自分の発言を恥じ、袁紹の挙兵を許して連合軍に参加した。

後に袁紹と共謀して劉虞を皇帝に擁立しようと計画した。 曹操にも参加を求めたが拒絶された。 191年、実際に擁立に動いたが、劉虞本人にも断られた。 安平に駐屯していたが、公孫[王賛] に打ち破られて冀州に侵入されたので韓馥は不安で仕方がなかった。 袁紹は高幹荀[言甚] を派遣して怯えている韓馥を説得し、冀州を譲渡させた。 従事の閔純らは袁紹軍は兵糧が乏しく一戦交えれば勝てると論じたが、 韓馥は地位を退いて袁紹に冀州の牧を譲った。 (魏書・武帝記など)


「演義」では冀州刺史として登場。反董卓連合軍に参加するが、 部下の潘鳳華雄に討ち取られる。 袁紹の計略によって冀州を乗っ取られ悔しがるがどうしようもなく、 張[L貌]の元に身を寄せる。
袁紹の冀州乗っ取りには様々な人物が絡んできます。 袁紹の部下で冀州乗っ取りに手柄があったと「正史」に出てくるのは郭図、 高幹、張導、荀[言甚]の4人ですが、 「演義」では逢紀が立てた計略と言うことになっています。 この逢紀の献策は「正史」で裴松之が引用する『九州春秋』に記載されています。

また、冀州を譲ろうとする韓馥を諌めたのは「正史」では耿武、 閔純、李整、趙浮、程奐の5人ですが、 「演義」では耿武、関純の2人が諌め、それに対して韓馥に仕えていた辛評、 荀[言甚]は袁紹に冀州を譲渡するよう進言します。

韓馥はどちらの場合も臆病に描かれており、抵抗策を選ばずに袁紹に冀州を譲ります。 ちなみに「正史」には韓馥の末路は記されていません。


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