許攸 子遠(きょゆう しえん)


姓:許
名:攸
字:子遠
生没年(?-?)
出身地:荊州南陽郡
親:
子:

若い頃から袁紹曹操と仲が良かった。

黄巾の乱が起こった頃、冀州刺史の王芬や周旌ら実力者と結託して霊帝 の廃立と皇族の合肥侯の擁立を図った。曹操にも声をかけたが拒否された。 黒山賊を討伐するために軍隊の出動を求めたが、そのとき北方に赤気がたちこめて東にたなびいたので、 天文官が霊帝に「陰謀があるに違いません。」と答えたので王芬を呼び出そうとした。 王芬は自殺し、陰謀は潰えた。

袁紹、逢紀と共に洛陽から逃れて冀州に逃げた。 その後も袁紹に仕え常に会議の席では議論に参加していた。 許の攻撃に向かう際、田豊荀[言甚] と共に参謀に命ぜられた。官渡の戦いでは曹操との戦いに反対し、軍を分けて一方を曹操と対峙させ、 もう一方で天子を迎えるべきだと進言したが聞き入れられなかった。 袁紹はどうしても自分の軍事力を振りかざして曹操を倒したかったのである。

審配は許攸の家族を法律に違反したと称して逮捕した。 許攸は腹を立てて袁紹を裏切った。 また別説には許攸は袁紹から財貨が褒美として充分に貰えないのが不満であったともいう。

許攸は曹操に寝返ると曹操は許攸を迎えて「卿が来れば我が事は成就する。」と言って喜んだ。続いて
許攸「袁氏はいまだ盛んな勢いです。どのように対処しますか?糧食はどのくらいありますか?」
曹操「一年は支えられる」
許攸「そんなことはないでしょう」
曹操「半年は持つぞ」
許攸「足下は袁紹を破るつもりではないのですか?なぜ事実を言わないのです?」
曹操「冗談じゃ。実はもう一ヶ月分しか残っていない。どうすればよいだろう?」
許攸「公はまさに危急存亡の時、袁氏の輜重は烏巣に集められており、警備は厳重ではありません。 いま急襲して兵糧を焼き払えば三日も袁氏はもたないでしょう。」

といった会話が行われ、賈[言羽]荀攸もこの計略に賛成したため、 曹操は烏巣を攻撃し、淳于瓊を捕らえて処刑した。袁紹軍は兵糧を失って総崩れとなった。

曹操が袁紹を破って冀州を手に入れたのには許攸の功績もあった。 ところが許攸はその功績を鼻にかけて傲慢になり、 曹操に向かって「阿瞞(曹操の幼名)、あなたは私を手に入れなければ冀州を手に入れることができなかったのですよ。」 と言った。曹操は笑って「その通りだ」と答えたが、内心許攸を憎んだ。 その後[業β]の東門を曹操の後について通った際、随行の者に「この男は私のお陰でここを通ることができるのだ。」 と言った。このことを通報する者がいて逮捕、処刑された。

袁術は袁紹と仲が良かった何[禺頁]を批判して、 「許攸のような貪欲で性格行動の不純な人物と付き合っている。」 と言ったが何[禺頁]は「許子遠は不純な人柄とはいえ、危機に立ち向かって泥をかぶることをいとわない。」 と反論した。 (魏書・武帝記、袁紹伝)


『演義』でも袁紹の幕僚として登場し冀州の行政を取り仕切った。 官渡の戦いでは審配が許攸の親戚を年貢を横領した咎で逮捕され、袁紹に咎められたことをことを根に持ち、 曹操に降って烏巣の奇襲を進言した。その後[業β]が陥落すると許攸は「自分がいなければこの城は取れなかった。」 と曹操に言った。曹操は笑って受け流したが諸将は不愉快であった。同じ事を許[ネ者]に言い、 怒りを買って斬られた。曹操は許攸を手厚く葬ったが、許[ネ者] にもこれと言った処罰はしなかった。
若い頃は袁紹や曹操と結託して花嫁泥棒を企てたメンバーなのでしょうか? 袁術と何[禺頁]のやり取りが許攸の人柄を物語っています。 天子を迎えるという策を袁紹が用いたらあるいは後漢末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
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