曹操が淮南、汝南を攻め落とすと曹操に帰順した。曹操は許[ネ者]の勇壮さに感心して 「こいつはわしの樊[口會](劉邦の近侍)じゃ」と言った。即日都尉に取り立て、 許[ネ者]の連れていた侠客たちはみな虎賁(近衛兵)に取り立てた。張繍 の征討に先陣として参加し、五桁に上る首級をあげ、校尉に昇進した。官渡の戦いの際、 兵士の徐らが反乱を計画していた。 休暇を得て外出した許[ネ者]は胸騒ぎを感じるとすぐに引き返して曹操に付いた。 徐らは許[ネ者]がいるのに驚いたため、その場で許[ネ者]は彼らを斬ってすてた。 この後、曹操はますます許[ネ者]を可愛がり、側から放さなかった。[業β]攻撃の後、関内侯に封じられた。
潼関で馬超・韓遂と戦った際、渡河作戦を行い先に兵を渡らせ、 曹操は許[ネ者]や虎賁兵百余名と背後を遮断するために後に残った。 そのとき韓遂らの軍が一万が押し寄せた。許[ネ者]は曹操を船に乗せ、船にすがるものを斬り、 船頭が流れ矢に倒れると片手で舟をこいで川をさかのぼり、やっとのことで脱出できた。 またこの戦いで曹操は単騎で直接馬超・韓遂と語り合うことがあった。 馬超は自分の武勇を頼んで曹操を手討ちにする予定だったが、かねてから許[ネ者]の武勇を聞いていたので、 「公に虎侯という者がおるそうだが、どこにいるのかね?」と尋ねると、許[ネ者]は目を怒らせて彼をにらんだ。 馬超はあえて行動に出ず、曹操は無事引き上げることができた。
曹操が漢中の張魯を攻めた際、山上に篭った敵を攻撃したが損害が大きいため、 退却を行うために夏侯惇と許[ネ者]に兵を与えて、包囲軍の帰還を命じた。 ところが夜中になって道に迷い、誤って敵の陣営に飛び込んでしまった。 ところが敵はこれを夜襲だと思い、ちりぢりになって退却した。
曹操軍の者は、許[ネ者]が虎のように強いのに。いつもはぼおっとしているので虎痴と呼んだ。 そのため許[ネ者]は虎侯と呼んだのである。天下の人はそれが許[ネ者]の実名だと思った。 許[ネ者]の人柄は慎み深く素朴で、法律を遵守し言葉は少なかった。曹仁 が任地の荊州から都に戻り、 曹操を訪ねたがあいにく曹操はまだ帰っていなかった。曹仁は宮殿の外で許[ネ者]と会うと語り合おうと思ったが、 許[ネ者]は「王(曹操)はもうすぐお出ましになるでしょう。」と言ってそのまま宮殿に入った。 曹仁はこのことを恨んだのであったが、周囲の人がこのことで許[ネ者]を咎めて、 「一族の重臣である曹仁どのがへりくだって呼びかけられたのに、どうしてむげにことわったのですか?」 と尋ねると、「あの方はご親戚の重臣ではありますが、外の大名です。私は朝廷内の臣下なので、 皆と大勢の場で語れば充分です。部屋に入って個人的に付き合うことはありません。」と答えた。 曹操はこのことを聞いてますます許[ネ者]を大事にした。
曹操が亡くなると許[ネ者]は血を吐いて泣いた。曹丕 が帝位につくと万歳亭侯、武衛将軍に昇進し、近衛兵を率いて曹丕に近侍した。 曹叡が即位すると牟郷侯に封ぜられた。曹叡の時代に逝去し、 壮侯とおくり名された。 (魏書・許[ネ者]伝)