夏侯惇 元譲(かこうとん げんじょう)


姓:夏侯
名:惇
字:元譲
生没年(?-220)
出身地:沛国[言焦]県
親:
子:夏侯充、夏侯楙、夏侯子江、夏侯子臧

夏侯嬰(劉邦に従った武将)の子孫である。曹操 の父の曹嵩は夏侯惇の叔父にあたる。 14歳のとき自分の先生を侮辱した者がいたため、 夏侯惇はその男を殺害した。このことにより気性の激しい者として知られるようになった。 曹操の挙兵当時から彼に従い、濮陽太守を務め、徐州征伐の際には留守を預かった。 張[L貌]が謀反を起こすと途中で呂布 軍の捕虜となるも、部下の韓浩の毅然とした態度に結局は助けられ、 荀[或”]が曹操の家族を守る甄城にたどり着き城内を落ち着かせた。 曹操が徐州から戻ると再び呂布と戦い、このとき流れ矢に当たって左目を負傷した。 これより夏侯淵と区別するために軍中では盲夏侯と呼ばれるようになったが、 夏侯惇はこれを嫌がり鏡を見るたびに腹を立ててその鏡を地面に投げつけたと言う。

陳留、済陰太守を歴任し、干ばつが起こった際にはみずから兵卒に混じって堤防を作るために土のうを運んだ。 後に河南尹に転任した。 198年、呂布は高順を派遣して劉備を攻撃させた。 夏侯惇は劉備を助けに向かったが高順に打ち破られた。 河北平定戦では後詰めについた。[業β]が陥落すると伏波将軍に昇進し、 法令に拘束されず、自己の判断で処置を行える特典を得た。 曹操に命ぜられ仲の良かった田疇に対して曹操のために働くよう説得したが、 田疇を曹操の臣下にさせることは出来なかった。衛固討伐に向かったが、 到着前に杜畿によって平定されていた。 曹操が袁譚袁尚と対峙している際、 劉表は劉備を派遣して葉まで攻め寄せた。 夏侯惇は李典を率いて防戦した。ある日劉備は突然陣営を焼いて退却した。 李典の反対を押しきって追撃したところ、伏兵にあって苦戦を強いられたが、 李典が駆けつけたため劉備は退却した。後に新野に駐屯していた劉備を攻撃したが博望にて敗れた。

216年には孫権征伐戦に参加。その後居巣に駐屯して呉に睨みを利かせた。 張魯討伐戦の際に曹操は不利な状況を見て退却を決意し、 許[ネ者]と夏侯惇に命じて山上の味方部隊を連れ戻すように命じた。 ところが道に迷い夜になって誤って張魯軍の陣営に飛び込んでしまった。 するとびっくりした張魯軍はちりぢりになって逃げ出してしまった。 219年には前将軍、220年に曹丕が帝位に即くと大将軍に昇進したが、 その年の内に亡くなった。忠侯とおくり名された。

夏侯惇は曹操の寵愛が最も重かった武将で、寝室に出入りすることも許されていた。 また、軍中にありながらもいつも先生を招いて講義を受けていた。 余分な財貨はすぐに周りに分け与え、足りなくなった場合には役所に支給してもらい貯蓄には全く無関心であった。

前将軍に任命された際、諸侯はみな魏から官号を受けていたが、夏侯惇だけは漢の臣下であった。 そこで夏侯惇は自分は「不臣の礼」(臣下として扱われない特別待遇)にふさわしくないと申し出た。 曹操は「最高の扱いは臣下を先生として扱うことであり、次は友人として扱うことである、と私は聞いている。 そもそも臣下とは徳義を尊ぶ人のことである。取るに足らない魏がどうして君に臣下として頭を下げさせるのか?」 と言った。しかし夏侯惇は強く要請したので結局前将軍に任命されることになったのである。 (魏書・夏侯惇伝)

「演義」では曹操の旗揚げから従軍し、 長安に遷都する董卓軍を攻撃して敗れた際には負傷した曹操と 曹洪を見つけ出し、追いすがる徐栄を槍で突き殺す。 また典韋を見つけて曹操に推挙した。 曹操が洛陽にて献帝を保護した際には李[人寉]郭[シ巳]の迎撃を命ぜられ勝利を収め将軍に任命される。 袁術を攻撃した際には寿春郊外にて橋ズイを討ち取る。

小沛で呂布軍と対戦した際には曹性に左目を射られる。 矢を抜くと目玉も一緒に抜けてしまったが、夏侯惇は「父の精、母の血、棄ててなるものか!」 と叫んで自分の左目を食べ、すぐさま曹性を刺し殺した。 博望波では李典の制止を振り切って劉備軍を攻撃するが諸葛亮 の火攻めにあって大敗を喫する。張魯平定戦では後詰めを務めた。曹丕の即位後に死去した。


曹操陣営でもひときわ存在感の大きな武将であり、「演義」では夏侯淵と並ぶ曹操配下の名将、 というイメージです。しかし「正史」では夏侯惇に関する記述は夏侯淵の半分にも満たず、 兵卒と一緒に土のうを運んだなど地味な事柄ばかりです。高順に打ち負かされたり、 道に迷って間違えて敵陣に突入したら敵が逃げてしまったなど、活躍もかなり冴えません。 「演義」では徐栄や橋ズイを討ち取る活躍が描かれますが、 「正史」ではどう考えても曹操は徐栄に打ち破られ、討ち取るなどからは程遠いですし、 橋ズイに至っては「正史」に登場しません。 「演義」で官渡や長阪などの勝ち戦でも目立った活躍の記述はありません。 「正史」を熟読してから「演義」の夏侯惇を追っていくと、 実は夏侯惇の活躍は後の講談師が作っていったものだということを感じ取ることが出来ます。

しかしながら曹操からの信頼は絶大であり、また武人としての実直さは「正史」 を読んでいても十分にすがすがしさを感じさせてくれます。 実力には(知名度の割には)疑問符を付けたくもなりますが、 むしろ曹操にとっては無二の親友であり相談役であったのではないかと想像できます。 (軍師というよりかはもっと個人的な、でしょうね。寝室に入れるくらいですから。 ん。。。寝室ってまさか。。。)

吉川三国志でも、横山光輝三国志でも、 そして特に蒼天航路でも夏侯惇は実力満点の名将としてカッコ良く描かれています。 それだけに「正史」を読むと夏侯惇の不甲斐なさに悲しさを感じてしまいます。


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