李典 曼成(りてん まんせい)


姓:李
名:典
字:曼成
生没年(?-220)
出身地:[亠兌]州山陽郡鉅野県
親:
子:李禎

一族の李乾は乗氏県で食客数千家を統率する有力者で曹操に従って 陶謙袁術呂布 と転戦を続けた。 呂布の武将薛蘭李封に反逆するよう誘われたが、 これを断ったので殺害され、子の李整が後を継いだ。 李整は青州刺史にまで昇進した。彼が亡くなると李典は中郎将となり部曲の後継者に指名された。 若いころから学問が好きで、先生について『春秋左氏伝』などの書物を学んでいた李典に 曹操は目をつけていたのである。

官渡の戦いでは一族や部下を連れて穀物の運搬など曹操軍の後方支援にあたった。 黎陽で曹操が袁尚らと対峙した際も、程[日立] と共に船で兵糧を運んでいた。 袁尚の魏郡太守の高蕃が水路を抑えて李典らの行く手を阻んだ。曹操は李典らに 「水路が通れないなら陸路を使え」と命ぜられていたが、李典は程[日立]に、 「高蕃の兵たちは武装度が低い上に水を頼みにしてだらけている。ここは専断が許されるときぞ。」 と言うと、程[日立]もこれに賛成し、黄河を渡って高蕃を破り、水路を確保した。

劉備劉表に命ぜられて葉県に進出すると、 曹操は李典を夏侯惇の配下として派遣した。 ある日劉備が自分の陣営を焼いて退却を始めた。夏侯惇は追撃をしようとしたが李典は 「理由もなく退却するのは伏兵がいるからでしょう。南側は道が狭く、草木が深いので危険です。」 と進言したが、夏侯惇はかまわず追撃し、伏兵に遭って危機に陥った。 李典の働きで無事退却することができた。

壺関攻撃では楽進と共に高幹を攻撃したが、 これを陥落させることができず、曹操自身の出馬を待つこととなった。 [業β]城攻撃、青州の海賊管承の平定戦などに参加しいずれも功績を上げて、 破虜将軍・都亭侯に昇進した。

張遼、楽進と共に合肥に駐屯しているとき、孫権 の大軍が攻め寄せた。張遼は城を出て戦おうとしたが、 平素三人が仲が良くない懸念を張遼が示すと李典は憤然として 「これは国家の問題で、君の計略が正しいかどうかが問題です。個人的な恨みを公の道義と違えてはなりません。」 と言った。三人は協力して合肥を守り抜くことができた。

36歳で逝去した。儒学を尊び、諸将と功績を争わず、彼の長者の風格を皆が称えていた。 彼の一族が出身の乗氏から[業β]に移り住んだ際、人数は一万三千人にも及んだという。 (魏書・李典伝)


『演義』でも曹操の冷静忠実な武将としてこまめに登場・活躍する。 『正史』よりも登場回数はかなり多い(但し名前だけの登場も多いが。。。) 曹仁が新野の劉備を攻めた際、曹仁に夜襲を進言したが、 徐庶に見破られて大敗した。 次に夏侯惇が劉備を攻めたときは、伏兵を警戒して夏侯惇を諌めた。

合肥では計略を使って太史慈に致命傷となる怪我を負わせるなどの知将ぶり。 張遼が曹操からの密書を開いて、城を打って出ることを主張すると、張遼と仲の悪い李典は沈黙。 張遼に「つまらない私情にとらわれて国事を誤って良いだろうか。私は打って出る。」と言われると。 「貴方がその決心なら」と固く同意して出陣し、孫権を打ち破った。 その後濡須口の戦いにも登場し、停戦後、許昌に戻る。


『正史』、『演義』共に知将として描かれますが、どこか影の薄いキャラクターです。 この時代、地方の有力者は血縁関係を求心力としながら、多くの隷属農民をその経済基盤として 力を振るい、時には従属したり戦ったりしながらの集合離散を繰り返していました。 李典の一族は曹操の一族に運命を託して[業β]に移り住んだのでしょう。 このような地方の有力者を多く取り込んだ曹操軍団が王朝を建てるまでに成長していくのですが、 曹操に従った有力者層は後の貴族階級になっていきます。
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