[广龍]悳 令明(ほうとく れいめい)


姓:[广龍]
名:悳
字:令明
生没年(?-)
出身地:雍州南安郡桓道県
親:
子:[广龍]会

若い頃には郡や州の役人として活躍し、初平年間(190-194)には馬騰 に従って羌族、[氏一]族の反乱の鎮圧で功績を上げ校尉に昇進した。 袁尚が部下の郭援を河東郡に侵入させると、 曹操鐘[揺系] に関中の諸軍閥を率いてこれに当たらせた。 [广龍]悳は馬超の配下として出陣し、 渡河して攻め寄せた郭援の首級を自らの手で挙げた。 この大功績で中郎将に命ぜられ、都亭侯に封ぜられた。 黄巾の残党である張白騎の反乱の鎮圧でも馬騰配下で活躍。馬騰陣営での軍功は一番であった。 馬騰が上洛すると、息子の馬超に仕えた。

馬超に従って渭水で曹操と戦い、馬超が敗れると共に冀城まで落ち延びた。 各地を転戦した挙句、敗退して馬超に従って漢中の張魯を頼った。 曹操が漢中を制圧すると[广龍]悳は手勢と共に曹操に降伏した。 曹操は[广龍]悳を立義将軍に任命し、関門亭侯に封じた。

関羽に呼応して宛で侯音らが反乱を起こすと、 曹仁に従って出陣して活躍した。 そのまま南下して樊城に入り、関羽の軍勢と対峙した。 樊城の武将たちは[广龍]悳の兄が蜀に仕えていたため[广龍]悳を疑いの目で見ていた。 [广龍]悳は常に「私は国恩を受けており死を捧げるべきである。 私が自らの手で関羽を殺さなければ関羽が私を殺すことになるだろう。」と言っていたという。 白馬に常に騎乗し、戦場で関羽に迫り、矢を射掛けて額に命中させた。 蜀軍は[广龍]悳のことを「白馬将軍」と呼んで恐れたという。

長雨が降り続き、魏軍の陣営は水没して諸軍は次々と関羽に降伏していった。 しかし[广龍]悳は頑強に抵抗を続けた。将軍の董衡・部隊長の董超が降伏しようとすると、 かれらを全員捕らえて斬った。水勢が増して部下たちがことごとく降伏すると 配下の将軍一名と伯長二名を連れて小船で逃走を図ったが、船が転覆してとうとう捕らえられた。 関羽は[广龍]悳の従兄の[广龍]柔が蜀に仕えていたことから降伏を求めたが、[广龍]悳は 「魏王は百万の軍勢を率いて天下に覇を唱えているが劉備は凡才に過ぎず敵対なぞできぬ。 わしは国家の鬼(幽霊)となっても賊軍の将軍になるつもりはない。」と答え、関羽に斬られた。

曹操は[广龍]悳のことを悲しみ、降伏した于禁と比べて嘆いたという。 曹丕は魏王になると[广龍]悳に壮侯とおくり名した。 (魏書・[广龍]悳伝)


『演義』では渭水の戦いから登場。この戦いでの活躍は「正史」と違って具体的に語られる。 張魯に身を寄せると馬超たちが蜀討伐のに向うが[广龍]悳は病気で留守を守ることになる。 曹操が漢中に攻め寄せると閻圃に推薦されて出陣するが、 曹操方に買収されている楊松の讒言を受けてしまう。 落とし穴に落ちて捕らえられるが、楊松の讒言とそれを真に受けた張魯の悪罵を思い出して降伏する。 その後濡須口の戦いに従軍して陳武を討ち取る手柄を見せる。 曹操と劉備の漢中攻防戦にも登場。 樊城の戦いに于禁と共に出陣するが、于禁との対立が描かれる。 関平と互角に戦い、関羽の肘を毒矢で射抜く活躍を見せるが、 関羽の水攻めにより陣営が水没すると、逃亡しようとしたところを周倉 に船を転覆させられて捕らえられる。見事な最期は「正史」通り。
馬超が蜀に身を投じたのに対して、[广龍]悳はなぜ張魯の元に残り、曹操に降伏したのか。 その理由を直接説明する記述はみつかりません。馬超とは仲違いだったのか、 それとも偶然に離れ離れになったのか、記述がないので想像するしかありません。 しかし[广龍]悳が曹操に仕えたのは張魯が降伏する215年から樊城で関羽に殺される219年までの わずか4年間ですが、曹操・曹丕から高い評価を得て後年(243年)には曹操の霊廟に 他の有力武将と共に祭られています。 馬超との仲はともかく死に所を心得た士として印象深い人物ですね。
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