郭援(かくえん)


姓:郭
名:援
字:
生没年(?-202?)
出身地:
親:
子:

袁尚により河東太守に任命された袁尚の部将。 高幹と共に数万の兵を率いて曹操勢力の河東郡を攻撃した。 当初は連戦連勝を続けたが、賈逵の守る城にはてこずり、 匈奴の単于を味方につけてやっと落すことが出来た。 郭援は賈逵が捕らえられるとこれを配下にしようと思って賈逵を説得した。 郭援はその次に皮氏を攻撃しようとしていたが、これは賈逵が重要な戦略拠点だと見ていた場所であったので、 賈逵は郭援に従うように見せ、また郭援の謀士の祝奥を迷わせ、 郭援の侵攻を一週間足止めさせることに成功した。 この間に河東郡は守りを固めた。 周囲の人が止めるのも聞かず、軽はずみに川を渡って鐘[揺系]馬騰韓遂らの軍と戦い、 敗退して馬騰配下の[广龍]悳に首を取られた。 郭援の軍は潰走し、曹操陣営は河東郡を制圧した。

鐘[揺系]とは叔父甥の関係であった。郭援の首が[广龍]悳によって届けられると鐘[揺系]は声を上げて泣いたが、 [广龍]悳が鐘[揺系]に謝ると、「郭援は私の甥であるが国賊である。なぜあなたは謝るのだ。」と述べた。 (魏書・鐘[揺系]伝、賈逵伝、[广龍]悳伝)


「演義」には登場しない。
「演義」には登場しませんが、 并州を通って関中を攻撃するという重要な作戦の総大将に袁尚によって命ぜられた武将です。 しかし狭量で無鉄砲な人物だったようで作戦は鐘[揺系]らによって阻まれました。 「演義」における顔良や文醜と良く似た豪傑だったのでしょうか。
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