淳于瓊 仲簡(じゅんうけい ちゅうかん)


姓:淳于
名:瓊
字:仲簡
生没年(?-200)
出身地:
親:
子:

霊帝は黄巾の乱が起きると宦官の蹇碩 を西園上軍校尉に任命し、袁紹曹操 ら八名はその下で西園の八校尉と呼ばれる校尉となった。淳于瓊はその中の右校尉となった。

後に袁紹に従った。沮授献帝 を[業β]に呼んで保護する戦略を袁紹に提案すると、 郭図と共にこれに反対した。 後に袁紹は沮授の軍権を郭図と淳于瓊に分け、各一軍を指揮させた。

200年2月、顔良・郭図と共に白馬にいる東郡太守の劉延を攻撃した。 10月、袁紹は淳于瓊に一万の兵を率いさせて糧秣の運搬を護送させた。 許攸が曹操に寝返るとこの淳于瓊の部隊の攻撃を曹操に進言した。 そこで曹操は自ら合わせて五千の精鋭の歩兵と騎兵を率いて夜中に出発し攻撃に向かった。 途中で質問されたときには「袁紹様は曹操が輜重隊を荒らすことを懸念して増援部隊を 送っているのです。」と答え、烏巣の淳于瓊の陣までたどり着いたという。

夜明けに攻撃が始まると淳于瓊は曹操の兵が少ないことを見て陣の外に出て戦った。 曹操軍は火を用いて淳于瓊軍を混乱させ、猛攻の末すべての糧秣を焼き払い、 督将の[目圭]元進、韓[艸呂]子、呂威[王黄]、趙叡らを討ち取り、淳于瓊を捕らえた。 袁紹が派遣した軽騎兵の援軍も敗走した。 曹操は千人もの兵を殺して鼻を切り取り、牛馬は耳と舌を切り取って袁紹軍に見せ付けたところ、 袁紹軍の者は皆恐れおののいたという。淳于瓊も鼻を切り取られて曹操の前に引き出された。 「どうしてこうなったのだ?」と曹操が聞くと「勝敗は天の定め。 どうして聞く必要があるだろう。」と淳于瓊は答えた。 曹操は内心淳于瓊を生かしておきたかったが許攸が 「明日鏡を見たら我々への憎悪を増すでしょう。」と言ったため、斬首した。 (魏書・袁紹伝)


『演義』では何進殺害後の混乱の中、 宦官たちに外に連れ出された少帝と陳留王を出迎える所で登場。 官渡の戦いでは烏巣を守るが、酒好きと乱暴がたたって曹操軍の攻撃に遭って捕虜となり、 耳、鼻、指を切り落とされて袁紹に送られた。酒におぼれて烏巣を失ったことを知ると、 袁紹は淳于瓊を打ち首にした。
袁紹軍の輜重隊を任せられた淳于瓊はかつては曹操や袁紹とは同僚だった人物です。 袁紹に従った後も特に目立った事績は無いのですが、 袁紹陣営の代表的な名士として発言力があったのでしょうか、 沮授に郭図と共に反対したところを見ると、潁川名士寄りの派閥だったのでしょう。
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