顔良(がんりょう)


姓:顔
名:良
字:
生没年(?-200)
出身地:
親:
子:

袁紹軍の名将であった。袁紹曹操 を討つにあたり、文醜と共に将帥に任命された。

200年2月、淳于瓊郭図 と共に白馬にいた東郡太守の劉延を攻撃した。 沮授は 「顔良は性格がこせこせとしており、武勇に優れているものの彼一人に任せてはいけません。」 と袁紹を諌めた。 2ヶ月後、曹操が渡河を行う気配を見せると袁紹は兵を割いて迎撃しようとした。 そこで曹操は倍の速度で進軍して、関羽張遼 を先鋒として顔良を奇襲した。関羽は顔良の旗じるしと車蓋を見つけると馬に鞭打って掛けつけ、 大軍の真っ只中で顔良を刺し、首を切り取って陣に戻ったが、袁紹軍に彼を相手に出来る者はいなかったという。

荀[或”]には「男一匹の武勇に過ぎず、一回の戦闘で捕虜にできる」と評された。 また顔良への奇襲策は荀攸の進言によるものだという。 (魏書・武帝記など)


「演義」でも文醜と共に袁紹軍の代表的な武将。また文醜とは義兄弟同然の仲であった。 公孫[王賛]との戦いでは文醜と共に先鋒となるが、 劉備軍の加勢に敗れる。 官渡では劉備と共に出陣し、宋憲魏続 を討ち取り徐晃を敗走させる。 しかし関羽に一刀に斬って落とされ、首を取られる。
袁紹軍の勇将。おそらく文醜と共に袁紹の様々な戦いで活躍したのでしょうが、 歴史の敗者である袁紹に仕えた顔良について、歴史書は多くは語りません。 「演義」の弘治本の注では劉備が顔良に関羽の特徴を話し、 「同じ姿の者を見かけたら私の居場所を教えてすぐにくるように言って下さい。」 と頼みました。そこで戦場で顔良は関羽に斬りかからず、問いかけようとしたが、 関羽は有無を言わさず斬りかかったので顔良は無抵抗に討ち取られたという記述があるそうです。
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