審配 正南(しんぱい せいなん)


姓:審
名:配
字:正南
生没年(?-204)
出身地:冀州魏郡
親:
子:男子2人

若い頃から激しい気性の持ち主であり、犯しがたい節操を持っていたという。 直言の士であったため韓馥には余り用いられなかった。 袁紹は冀州を支配すると、審配を別駕侍中とし、軍務を統括させた。 公孫[王贊]を滅ぼすと袁紹は軍の再編成を行い、 審配と逢紀に数十万にも上るようになった軍の事務を統括させた。

『献帝記』によれば袁紹が曹操討伐を決心した際、 沮授田豊 は内政を固めてからじっくりと戦うべきだと主張したが、 郭図と審配は優勢な兵力を利用しての短期決戦を主張したという。

官渡の戦いの最中、許攸の家族を法律違反の咎で逮捕したため、 許攸は出世の見込みが無くなり曹操に寝返ったという。 また敗戦後、審配の二人の子供が曹操に捕らえられたため、 審配と折り合いの悪かった蒋奇 と孟岱は審配が曹操に寝返るのではないかと讒言した。 袁紹が心配になってやはり審配と仲の悪かった逢紀に聞くと、 「審配は節操の固い人間ですので、子供が捕らえられたからといって寝返ったりはしないでしょう。」 と言った。これが元で審配と逢紀は仲直りが出来た。

袁紹の死後、審配と逢紀は跡継ぎに袁尚を推し、 袁譚を推す郭図・辛評と対立した。 審配らは年長の袁譚を推す大勢を押し切り、袁紹の遺志を継いで袁尚を跡継ぎに立てた。 このことで袁譚は車騎将軍を名乗り、袁尚との対立が決定的となった。 曹操が黎陽に軍を進めると袁譚がこれを迎え撃ったが袁尚はごく少数の兵を送っただけであった。 袁譚の増兵要求を審配が断ると、袁譚は軍の監督として同行していた逢紀を殺害した。

204年2月、袁尚が袁譚の攻撃に向かうと蘇由 と共に[業β]に残って守備を固めた。 曹操が桓水まで軍を進めると蘇由は曹操への寝返りを計画したが、 審配はこれを察知し、市街戦の末蘇由を破ったので、蘇由は曹操軍に合流、 曹操軍は[業β]を包囲した。

四月、曹洪 を包囲に残すと曹操は上党から運ばれる糧道である毛城を守っていた尹楷 を破り、次に沮鵠の守る邯鄲を陥落させた。 [業β]へ地下道を掘り進んでの攻撃を試みると、審配は城内に塹壕を掘って対抗した。 審配の部下の馮礼が城門から曹操軍の兵を入れると、 審配は城壁の上から石を投げて兵を出られないようにして殲滅した。 五月になると曹操は土山や地下道を破壊して城の周囲に中途半端な浅い堀を作った。 審配はこれを馬鹿にして工事の妨害を行わなかった。ある夜曹操軍は総出で堀を拡張し、 [シ章]水の水を引いて城を水浸しにした。城内の半数が餓死したという。

七月に袁尚が救援に来たので、審配は袁尚と呼応して曹操を攻撃したが、 曹操はこれを打ち破った。その後袁尚軍に寝返りが相次ぎ、 袁尚軍は総崩れとなって中山に退却、袁尚の印綬や物資、兵を曹操は手にいれた。 曹操がこれらを城内に見せつけたため、[業β]の士気はさらに低下した。 曹操が陣営を出て城の周りに来た際、審配は密かに弩兵で曹操を狙わせたが、 あと一歩のところで曹操を逃してしまった。 そして八月、東門を守っていた審配の兄の子の審栄が城門を開いて曹操軍を城内に導いた。 戦闘の末、審配は生け捕られた。曹操は審配を召抱えたいと考えたが、 審配は忠義の態度を貫き、最期は「我が君は北におわすのだ」と北を向いて斬首された。

荀[或〃]は官渡の前に曹操を励ます際、 審配を「独断的で計画性が無い」と評している。 袁譚を跡継ぎに推した辛評の家族は[業β]から逃亡したが、 辛[田比]の家族は逃げ遅れて審配に殺害された。 審配が曹操に捕らえられると辛[田比]は盛んに審配の悪行を並べ立てて斬らせたという。 また[業β]陥落後、曹操が押収した審配の財産は五桁に上る莫大なものであった。 (魏書・袁紹伝)


『演義』でも忠義の士であること、袁紹軍閥内での権力争いの中心人物、 そして巧みな篭城戦指揮官として描かれる。 官渡の戦いを前にして沮授、田豊に対しては郭図と共に反対して主戦論を展開する。 関羽が白馬で 顔良文醜を討ち取ると、 劉備 を斬れと袁紹に進言したが劉備の巧言により袁紹はこれを容れなかった。 官渡の戦いでは土山を築いてその上から弓矢を浴びせたり、 地下道を掘るなどして曹操軍を苦しめたが、劉曄 は発石車で土山を壊したり、塹壕を掘るなどして審配の策を封じ込めた。 糧秣を移送していた韓猛が曹操軍に襲われると、 烏巣の守備の強化を進言し、淳于瓊らを派遣した。

袁紹の死後、審配は袁紹の代わりに遺言状を書き、葬儀を執り行って袁尚を跡継ぎに据えた。 袁譚が曹操に降ると陳琳と共に[業β]を守った。 曹操軍が[業β]を包囲した攻城戦の模様は『正史』とほぼ同じ。 水攻めで城内に餓死者が多発すると曹操は辛[田比]を使者として降伏勧告を行った。 審配は怒って辛[田比]の家族たちを斬って城壁から投げ捨てた。 辛[田比]と仲が良かった審栄は同情して曹操軍に内通し、 曹操軍を城内に引き入れて審配は捕らえられた。最期も『正史』の通りである。


気性の激しい忠義の士、派閥争いの中心人物、土木作業を利用した野戦・篭城戦の名人、 様々な側面を持った人物です。莫大な財産を持っていたという記述に注目したいのですが、 これは沮授に関しても官渡出陣の前に一族に財産を分け与えたとあります。 また許攸に関してもあてにしていた褒美がもらえなくて寝返ったとの記述があります。 袁紹陣営の有力者たちは各地の豪族の代表者のような者も多かったのでしょうが、 彼らの対立の原因のひとつにこのような財貨や利権も絡んでいるのではないかとふと想像しました。
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