胡軫 文才(こしん ぶんさい)


姓:胡
名:軫
字:文才
生没年(?-?)
出身地:涼州
親:
子:

董卓に従っていた陳郡太守。せっかちな性格であったという。 孫堅が董卓攻撃のために陽人まで進撃すると 呂布らを率いてと共に五千の兵を率いて迎撃した。 彼は人々に前もって「このいくさは要するに太守を一人殺せば終わりなのだ。」 と公言しており、周囲の反感を買った。長い行軍を経て宿営を行おうとしたある日、 胡軫が失敗すれば良いと思っていた呂布ら諸将は董卓の事前の命令に反して 「敵の油断を突いて夜襲をかけるべきだ」と進言した。 ところが孫堅の守りは固く隙が無さそうだったので、 疲労困憊した兵たちは塹壕も掘らずに休んだ。 ここで呂布らはさらに敵の夜襲だというデマを流し、軍は混乱したまま十里も退却し、 やっと敵襲が無いことを悟った。翌日には孫堅の守りは固まっており、 結局有効な攻撃が出来ずに退却した。

董卓が死ぬと李[イ寉]らは王允 らが掌握した長安に攻め寄せた。王允は徐栄 と胡軫に命じて新豊で迎え撃ったが、徐栄は戦死、胡軫は李[イ寉]に降伏した。 一説には胡軫は涼州出身であったため王允とは折り合いが悪く、 王允に李[イ寉]を降伏させるように命令されるとそれに反して 楊整脩と共に李[イ寉]に投じたという。 (呉書・孫堅伝、後漢書・董卓伝)


『演義』では華雄の部下として五千の兵を率いて孫堅軍と戦うが、 程普に討ち取られた。
呂布を部下として率いるくらいですから董卓からの信任は高かったのでしょう。 李[イ寉]に従った後の事跡は不明ですが、張既 伝によれば司隷校尉の胡軫は馮翊郡の功曹の遊殷 の罪をでっち上げて処刑した後、 病気にかかって「悪うございました。悪うございました。遊功曹が鬼(幽霊)を連れてきた。」 をうわごとのように言うだけになり、死んだといいます。以上が胡軫に関する記述である可能性は などから高いとは思いますが、 ちくま学芸文庫の三国志の索引には別人物として掲載されています。 なおちくまの索引には胡文才というやはり涼州出身の人物も別扱いされていますが、 『三国志』『後漢書』共に『九州春秋』 から引用しておりこちらはほぼ確実に同一人物でしょう。

むじん書院を運営されている のむじん様のご指摘により考察を加えてみました。ありがとうございます。


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