韓暹(かんせん)


姓:韓
名:暹
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:

河東郡で勢力を張った白波賊の頭目の一人。 楊奉に呼び寄せられて李楽胡才と共に手兵を率いて献帝のお供をする。 追撃してきた李[人寉]らと戦って敗北し、献帝らご一行を牛車に乗せて安邑に移す。 このとき征東将軍に任命された。 張楊の援助を得て196年7月、楊奉と共に献帝を擁して洛陽まで帰還した。 しかし諸将の間はうまく行かず、韓暹は董承と戦いを続けていた。 曹操が献帝を許昌に迎えると出奔し周辺を荒らしまわったが、 曹操に本拠地であった梁を占領されたので行くあてをなくして袁術に降伏した。 袁術は楊奉・韓暹と共同戦線を張り、張勲 を大将として送って呂布に対抗しようとした。 呂布の配下にいた陳珪 は韓暹らに軍需品を提供して味方につけたため、袁術軍は敗退した。 呂布と共に寿春近くまで進軍し、袁術領を略奪してまわった。 その後も徐州・揚州で略奪を続けたが最後は楊奉と共に劉備に討たれた。 別説には劉備は楊奉を呼びつけて殺害したため、 韓暹は并州に戻ろうとしたが杼秋県の守備隊長の張宣に討たれたという。 (魏書・董卓伝ほか)
「演義」でもほぼ同じだが、袁術軍に勝利した後、 任地での略奪がひどかったので張飛に謀殺されたという最期である。
「白波」といえば盗賊の代名詞。そのルーツがこの白波賊であり、韓暹はその白波賊の代表格と言えます。 盗みを続けて盗賊らしい最期を迎えます。三国志の物語ではあまり脚光を浴びない人物ですが、 陳瞬臣氏の『秘本三国志』では匈奴の単于於夫羅 と組む白波賊のリーダーとして登場します。
リストへ戻る