郭嘉 奉孝(かくか ほうこう)


姓:郭
名:嘉
字:奉孝
生没年(?-207)
出身地:豫州潁川郡陽擢県
親:
子:郭奕

若くして将来を見通す能力をもっており、密かに天下の英傑たちと付き合った。 このため見識ある者のみが彼のことを評価した。20歳で司徒の役所に召し出された。 最初北方に行って袁紹と会ったが、その後で袁紹の謀士である 郭図辛評に対して、 「そもそも知恵者とは主君の人物をはっきり判断するものです。だからこそその行為は安全確実で、 功績と名誉を得ることが出来ます。袁公はいたずらにへりくだって周公(周の文王の子であり武王の弟、 名宰相、謙虚な人、の代名詞とも言える。)の態度を真似ようとしていますが、人を使う機微についてご存知ではありません。 色々手を広げながら肝心なところがおろそかな場合が多く、策略好きながら決断力がありません。 協力して天下の大難を救い、覇者となろうと思っても難しいことです。」と言い、立ち去った。 曹操戯志才を失った後、 参謀を探していたが、荀[或”]によって曹操に推薦されて、彼に仕えた。

曹操が「本初(袁紹の字)は領地は広く兵は強力な上に、天子に対して不遜な態度を取っている。 私は袁紹を討伐したいが力ではかなわない。どうすれば良いか?」と郭嘉に尋ねた。郭嘉は、

「劉邦は最初は項羽よりも弱かったのですが、結局項羽を虜にしました。いま袁紹には十の敗因があり、 殿には十の勝因があります。

と答えた。曹操は笑いながら「私はそのような徳を持っているのだろうか。」と言った。郭嘉は 「袁紹は現在北で公孫[王賛]を攻めています。 殿は呂布を片づけるべきでしょう。袁紹が呂布を助けたら、それこそ大きな害です。」 と答え、曹操はこれに大いに同意した。呂布を攻撃して追いつめたが、 冬になり兵士の疲労が激しいため撤退しようと考えた。 郭嘉は呂布を捕らえるまで攻撃の手を弛めないよう荀攸と共に進言し、 曹操は呂布を結局捕らえることが出来た。

官渡で袁紹と対陣している際に、孫策が許昌を狙っているという情報がもたらされ、 曹操と幕僚たちに動揺の色が走った。 郭嘉は「孫策は江東を平定しましたが、彼が降した英傑たちの部下は忠義の者が多いのですが、 孫策はこれらに全く気を遣っておりません。いつか必ず刺客によって殺されるでしょう。」 と言って周囲を落ち着かせた。孫策は郭嘉の予言した通り、 許貢の部下の手によって怪我を負い、死亡した。

袁紹が病死すると、曹操は、袁譚袁尚らと戦い連戦連勝であった。 これを機に一気に袁家を滅ぼしてしまおうという意見が諸将の間で優勢となった。郭嘉は、 「袁兄弟の間には後継者問題があり、配下の謀臣たちがそれを煽っています。 今ことを急げば彼らは団結して我々に反抗するでしょうが、放っておけばすぐに争いを始めます。 南方の荊州に向かって劉表を討伐するふりを見せるのが良いでしょう。」 と進言した。予想通り袁兄弟は争いを始め、袁譚が曹操に降伏したため、曹操はこれを守り、 袁尚を攻撃して[業β]を陥落させ、その後に南皮を平定して袁譚を滅ぼした。

さらに曹操は烏丸と烏丸に逃げ込んだ袁尚の討伐を考えた。 諸将は劉表が劉備を差し向けて許昌を攻撃させないかと懸念した。 郭嘉はただ一人これに反論し、意見を述べてこう言った。 「蛮族たち(烏丸のことを指す)は遠い地にいるためまさか殿が直接討伐に来るとは思っていないでしょう。 また、袁紹は蛮族や河北の民に恩恵を施しており、今殿はそれらの民を力で押さえているに過ぎません。 烏丸族が動けば人民や他の蛮族もこれに呼応して幽州、青州は危なくなります。劉表はといえば、 自分が劉備を統率する能力がないことをわきまえており、重く任用すれば劉備を制御できず、 軽く任用しても言う通りにしてくれないことをも分かっています。劉備が攻めてくることもありません。 したがって今、烏丸を討伐すべきです。」 郭嘉の軍略に従ってこの北伐を進行し、烏丸の王である[足榻]頓(トウトツ)を斬った。 この年38歳で逝去した。最後の役職は軍祭酒(軍付きの役人)であった。 葬儀で曹操は荀攸たちに対して「諸君らは私と同年代だが郭嘉だけ若かった。 天下のことが済めば彼に後を託そうと思っていたが中年で若死にした。運命だなぁ。」と言った。 貞侯とおくり名された。曹操が赤壁で敗れると「郭嘉がおればこんな目には遭わずに済んだだろうに。」 と嘆いた。

陳羣は郭嘉の品行が修まらない、と朝廷で何度も郭嘉のことを起訴したが、 郭嘉は全くそのことを気にしなかった。曹操は郭嘉のこの態度を誉めたが、 同時に陳羣の公正さについても誉めたという。

呂布に徐州を奪われて逃亡してきた劉備を曹操が保護した際には、 劉備を後の災いを防ぐために殺すべきだという論と、それでは天下の人心を失う、という意見に分かれたが、 郭嘉は劉備暗殺を勧めたという説と、反対したという説が両方裴松之によって引用されており、 裴松之もどちらが正しい、という判断は下していない。

司馬懿は 「郭嘉や戯志才は世俗に背を向けた生き方をしていたが、知謀に優れており最後には名声を博した。」 と評している。


「演義」では程cの推挙により曹操に仕え、 劉曄を推挙する。 曹操が父を殺された恨みで徐州に攻め込み、呂布に空き巣を狙われた。 ちょうど劉備から和議を勧める書状が来ていたので「この際劉備に恩を売っておくべき」と進言した。 呂布と戦って大火傷を負った曹操に対して、「ただちに計略を持って対応するべき」と進言し、 曹操は自分が死んだと呂布軍に思わせて勝利した。「正史」で曹操に対して行っている献策の数々は 「演義」にもほぼそのままの形で見られる。また、遺言として曹操に送った手紙の中で、 「袁尚と袁熙の首はそのうち何をせずとも手に入るだろう。」と予言していたが、 その通り遼東太守の公孫康が首を送ってきた。
天才的な読みの深さで将来の予測を立て、それを的中させた人物です。 その読みが的中したのも、劉備、袁紹、劉表、曹操などの人物に対する深い洞察力に見られるように、 人間の性格、心理やその環境を的確に分析し、 それらが重なり合ってどのような展開を見せるかという想像力が豊かであったことが原因の一つに思われます。 郭嘉が論じた曹操と袁紹との比較は、状況としてはおそらく曹操を励ますためであり、 曹操の美点と袁紹の短所が強調され、言われた曹操自身も思わず照れ笑いをしていますが、 その状況を差し引いても曹操と袁紹の本質を的確に捉えているように思えます。 きっと曹操は郭嘉のこの言葉に大いに励まされたに違いありません。

堅物の陳羣に非難された話や司馬懿の評価を見ると、 自由奔放に生きた人間としての郭嘉も目に浮かんでくるようです。 総合すると、天才肌ながらも、その直感力を論理によって再構築の出来る、 単なる切れ者に終わらない大軍師であると言えるでしょう。そして早世したことにより、 持っていたであろう欠点を後世に伝えず、伝説化した軍師としての姿が伝わっています。


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