『献帝春秋』によれば、 献帝が李[人寉]らから逃れて河東郡に到着すると、 使者として献帝の元に遣わされた。 帰還すると郭図は袁紹に献帝を迎えて[業β]を都にするよう進言したが袁紹は承知しなかった。 しかしこれは別説には淳于瓊と共に沮授 に反対して献帝を迎えることは献帝の意向に逆らえず、重荷になると進言したともいう。
『献帝伝』によれば、 官渡の戦いの前には沮授、田豊の持久戦論に審配 と共に反対して、沮授の論は現状維持策であり時の機微を得ていないと批判したので、 袁紹は郭図らの意見に従い、さらに沮授の権限を郭図、淳于瓊に分けて三分割した。 沮授が後に病気を理由に軍権を放棄するとその後継となった。
袁紹が曹操との決戦のために南下すると顔良、 淳于瓊と共に黄河を渡って白馬を攻撃した。
烏巣を守っていた淳于瓊が曹操の急襲を受けると、 即時救援を主張する張[合β]に反対して、 曹操軍の本陣の攻撃を主張した。袁紹は張[合β]と高覧にこの任務を命ずるが、 失敗すると郭図は張[合β]はこの失敗に対して不遜な態度を取っていると袁紹に讒言した。 結果的に張[合β]と高覧は曹操に降伏した。 袁紹が死去すると、辛評とともに長男の袁譚に肩入れした。
『英雄紀』によれば袁譚が袁尚と戦って苦戦すると、曹操に降ることを袁譚に進言し、 辛[田比]を使者として送ることを進言した。
袁譚は劉表に援軍を申し入れたが、拒絶された。 『典略』によれば曹操に再び降ることは郭図にも脅迫されており、 また何度も曹操と戦っていたことからすでに不可能であったという。
袁譚が南皮で曹操軍に攻撃されて戦死した際に死亡した。 曹操の詩によれば郭図は桑畑で落命したという。 (魏書・袁紹伝)