後に袁紹に従った。沮授が献帝 を[業β]に呼んで保護する戦略を袁紹に提案すると、 郭図と共にこれに反対した。 後に袁紹は沮授の軍権を郭図と淳于瓊に分け、各一軍を指揮させた。
200年2月、顔良・郭図と共に白馬にいる東郡太守の劉延を攻撃した。 10月、袁紹は淳于瓊に一万の兵を率いさせて糧秣の運搬を護送させた。 許攸が曹操に寝返るとこの淳于瓊の部隊の攻撃を曹操に進言した。 そこで曹操は自ら合わせて五千の精鋭の歩兵と騎兵を率いて夜中に出発し攻撃に向かった。 途中で質問されたときには「袁紹様は曹操が輜重隊を荒らすことを懸念して増援部隊を 送っているのです。」と答え、烏巣の淳于瓊の陣までたどり着いたという。
夜明けに攻撃が始まると淳于瓊は曹操の兵が少ないことを見て陣の外に出て戦った。 曹操軍は火を用いて淳于瓊軍を混乱させ、猛攻の末すべての糧秣を焼き払い、 督将の[目圭]元進、韓[艸呂]子、呂威[王黄]、趙叡らを討ち取り、淳于瓊を捕らえた。 袁紹が派遣した軽騎兵の援軍も敗走した。 曹操は千人もの兵を殺して鼻を切り取り、牛馬は耳と舌を切り取って袁紹軍に見せ付けたところ、 袁紹軍の者は皆恐れおののいたという。淳于瓊も鼻を切り取られて曹操の前に引き出された。 「どうしてこうなったのだ?」と曹操が聞くと「勝敗は天の定め。 どうして聞く必要があるだろう。」と淳于瓊は答えた。 曹操は内心淳于瓊を生かしておきたかったが許攸が 「明日鏡を見たら我々への憎悪を増すでしょう。」と言ったため、斬首した。 (魏書・袁紹伝)