董卓が少帝と陳留王(後の献帝) を保護して洛陽に入ると董卓は袁紹に少帝を廃して陳留王を皇帝に立てたいと持ち掛けた。 袁紹は表向き賛成しておいて「太傅(おじの袁隗)と相談の上決めなくては」と言って脱出し、 そのまま冀州に逃亡した。董卓は怒ったが当時宮中には袁紹に味方する者が多かったため追手はなく、 董卓は袁紹の機嫌を取るべきだとの進言に沿って渤海太守に袁紹を任命した。
袁紹は他の諸侯と共に挙兵して董卓との対決姿勢を見せ、 冀州の牧韓馥と協力して 幽州の牧劉虞を皇帝に立てようとして、 印璽を劉虞に送ったが劉虞は受け取ろうとはしなかった。 その間に北平太守の公孫[王賛]は韓馥を攻撃してこれを撃破し、冀州へ侵攻した。 董卓が洛陽を焼き払って長安に移ったので連合軍は解散状態となり、 群雄たちは割拠してお互いを攻撃しあうようになった。 袁紹は謀臣の逢紀の策に沿って公孫[王賛]に韓馥を攻めさせ、 韓馥には使者を送って袁紹に帰順すべきだと説得させた。かくして袁紹は冀州を手に入れた。 従事の沮授は「黒山の賊、青州の黄巾党を討ち、 公孫[王賛]を幽州から駆逐して匈奴を慰撫し、 河北を押さえた上で長安から天子を迎えれば天下統一は成り立つでしょう」と進言し、 袁紹はこの戦略に沿うことにした。
界橋で公孫[王賛]と対峙し、精鋭の騎馬部隊「白馬義従」を撃退したが手薄になった本陣を攻撃された、 弓矢が雨のごとく降り注いだため従事の田豊 は袁紹を垣根の裏に避難させようとしたが「大丈夫たるものは垣根に隠れてまで生きようとするものではない」 と叫んだ。味方は奮起して反撃を行い、敵は小さい部隊が袁紹の本体だとは気がつかずに退いていった。 苦戦の末公孫[王賛]を打ち破り冀州での優位を確定させると黒山賊を攻撃した。
献帝の即位は袁紹の求めるところではなかったが曹操 が献帝を報じて許昌に都を定めると郭図を使者として派遣した。 郭図は戻ると献帝を[業β]に迎えるべきだと進言したが袁紹は認めなかった。 袁紹は大尉に任ぜられたが曹操より位が低かったためこれを受け取らなかった。 曹操は上表して袁紹を大将軍の位につけた。
199年、易京にて公孫[王賛]を討ち取り河北を平定すると袁譚を青州に、 袁熙を幽州に、高幹を并州に派遣して治めさせた。 沮授は必ず後に災いを起こすと止めたが袁紹は聞かなかった。劉備 が曹操を裏切って徐州を手にするとこれを援助した。曹操が劉備を攻めたとき、 田豊はこの隙に乗じて許昌を攻めるべきだと進めたが袁紹は子供の病気を理由に出兵しなかった。 劉備は曹操に撃破され袁紹を頼った。
黎陽に出陣し黄河の対岸の白馬を配下の顔良に攻めさせた。沮授は 「顔良は性格が狭量なので彼一人に任せてはいけません」と言ったが聞き入れられず顔良は 関羽に討ち取られた。次に文醜 と劉備を派遣したがやはり曹操軍に討ち取られた。 大将二人が討ち取られ軍は動揺したが数の上で勝っており曹操を官渡まで追いつめ、 曹操は篭城した。沮授は「敵は勇猛さでは我が軍以上だが兵糧が少ないので持久戦に持ち込むべきだ」 と意見したが袁紹は正々堂々と正面から攻めることにこだわった。 城の外に盛り土をしてその上に櫓を立てそこから矢を射掛けたので曹操軍は盾の陰に隠れて縮こまっていたが、 曹操が「発石車」を作り大きな石を飛ばして櫓をことごとく壊した。 今度は袁紹軍は易京攻めでも用いた地下道からの攻撃を試みたが曹操は塹壕を掘って対抗した。 淳于瓊が一万の兵を率いて兵糧を北へ輸送することになった。 沮授は「蒋奇を別に派遣して曹操の攻撃に備えるべきだ」と進言するがこれも受け入れられない。 謀臣の許攸が曹操軍に寝返って烏巣に兵糧が貯めてあると曹操に教えたため、 曹操は歩兵・騎兵五千を率いて烏巣に駐屯していた淳于瓊を攻撃して討ち取り、 兵糧を焼き払った。烏巣への救援部隊も破れ、張[合β]、 高覧が曹操軍に寝返ったため、 袁紹軍は総崩れとなり息子の袁譚とともに単騎で黄河を渡った。 本心で降伏しなかったものはすべて殺されその数は八万にも上ったという。
官渡に出陣する前、田豊は「曹操は兵法は巧みなので持久戦に持ち込むに越したことはない。 将軍(袁紹)は地の利(黄河)があり、同盟者もいるので奇襲部隊を複数編成して敵の虚を衝いて、 河南を混乱に陥れ人々が農耕に携われないようにしてしまえば2年で自然と勝つことが出来ます。 一発勝負に出て万が一敗北するととり返しのつかないことになります。」と進言していた。 袁紹は「わしが田豊の意見を聞かなかったから案の定笑われる羽目になった」 と田豊を殺してしまった。田豊は自分の運命を予測していたという。その後、冀州各地の反乱を平定し、 息子たちを連れて倉亭でもう一度曹操と対峙したがまたも敗れ去った。 202年、憂悶のうちに亡くなった。袁紹は袁尚 を美貌のゆえ跡継ぎにしたいと思っていたがそれを公表する前に亡くなったため袁譚と袁尚の後継争いは深刻となり、 結局袁家を滅ぼすことになった。(魏書・袁紹伝)