袁譚 顕思(えんたん けんし)


姓:袁
名:譚
字:顕思
生没年(?-205)
出身地:?
親:袁紹
子:

袁紹の嫡子。恵み深い人柄であったという。 袁紹は袁譚を青州に派遣し、公孫[王賛] 配下の田楷孔融 を追い出して青州を平定した。曹操 は袁譚を青州刺史に任命したが小人を用いていい加減な政治を行ったため治績は上がらず治安も悪かった。 過去に劉備に茂才(人物を推薦する項目のひとつ)に推挙されたことがあったため、 劉備が曹操に敗れ青州に落ちてくると礼を尽くして出迎えた。 官渡の戦いに従軍したが敗北すると親子一騎ずつで黄河を渡って退却した。

袁紹は生前、末子の袁尚を後継者に立てたがっていたがそれを 公表する前に死んだため袁譚を擁立する派閥と袁尚を擁立する派閥に袁家は分裂した。 人々は袁譚が年長であるため袁譚を立てたいと思ったというが審配 らは先に袁尚を後継者に立ててしまった。袁譚は車騎将軍を自称したため袁尚との溝は決定的になった。 曹操が攻めてくると黎陽に陣を置いたが袁尚は兵を少ししか与えず代わりに逢紀 を監視役として送ってきた。度重なる増兵要求に袁尚が応じないのに怒って袁譚は逢紀を殺してしまう。 曹操との交戦が始まると再び袁尚に援軍を要請し、袁尚は自ら出向き、 兄弟で半年曹操と対峙したが敗走して黎陽に篭城した。 曹操が包囲しようとすると[業β]まで落ち延びた。別駕の王脩は 「兄弟で攻め合うのは滅亡への道をたどっているようなものだ」と言われたが聞き入れなかった。

曹操が河北から劉表を攻撃するために去ると兄弟は再び争いを始め袁譚は敗走して平原に篭城した。 袁尚の攻撃が厳しいので郭図の進言に従って 部下の辛[田比]を曹操の元に派遣して救援を求めた。 曹操と袁譚は協力して袁紹を打ち破ったがそのとき袁尚から曹操に帰順した呂曠呂翔に将軍の印璽を渡していた。 曹操は袁譚の偽りの投降を見抜いていたが袁譚の娘と曹操の息子の婚約を行い袁譚を安心させた。 曹操が帰還すると袁尚はみたび袁譚を攻撃したがその隙をねらって曹操が[業β]を包囲したため袁尚軍は救援に引き返した。 しかし曹操軍に撃破され中山に逃げ込んだ。袁譚は袁尚に属していた冀州の諸郡を手に入れ、 袁尚を打ち破って幽州に逃亡させ、袁尚の軍勢を手に入れた。 しかし曹操が進撃してくると南皮まで退き篭城の末205年1月、曹操配下の曹純 の部隊に討ち取られた。

「演義」でも弟袁尚との骨肉の争いを演ずる。父袁紹には「殺伐とし過ぎている」と 評されて後継者に指名されなかった。南皮で曹操に包囲されると配下の辛評 を送り降伏を申し出るが認められず袁譚の元に戻ると袁譚は「弟(辛[田比])は曹操に寝返った。 君もか?」と問うと辛評は心外の余りショック死してしまう。


有能な家臣の言葉を用いないばかりか殺してしまうという父と同じ失敗をしたことになっています。 しかし、「正史」には辛評の死の記述はないので後世の創作である可能性が高いでしょう。 青州を攻め取るという功績を残しましたが、治績は良くなく、 曹操が青州を治めるようになっても海賊が横行したり、 山東半島の先の方は遼東の公孫氏の影響が強かったり、 なかなか安定した領地経営を行うことが出来ない地となってしまいました。 また、劉備に推挙されたり、曹操の娘と婚約するなど、 三国志を代表する英雄に評価されているという見方も出来ます。親の七光りか、それとも実力も備えていたのか、 曹操と同盟を組んだ意図はどこにあったのか、考えを巡らせると興味深いものがあります。
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