袁紹は生前、末子の袁尚を後継者に立てたがっていたがそれを 公表する前に死んだため袁譚を擁立する派閥と袁尚を擁立する派閥に袁家は分裂した。 人々は袁譚が年長であるため袁譚を立てたいと思ったというが審配 らは先に袁尚を後継者に立ててしまった。袁譚は車騎将軍を自称したため袁尚との溝は決定的になった。 曹操が攻めてくると黎陽に陣を置いたが袁尚は兵を少ししか与えず代わりに逢紀 を監視役として送ってきた。度重なる増兵要求に袁尚が応じないのに怒って袁譚は逢紀を殺してしまう。 曹操との交戦が始まると再び袁尚に援軍を要請し、袁尚は自ら出向き、 兄弟で半年曹操と対峙したが敗走して黎陽に篭城した。 曹操が包囲しようとすると[業β]まで落ち延びた。別駕の王脩は 「兄弟で攻め合うのは滅亡への道をたどっているようなものだ」と言われたが聞き入れなかった。
曹操が河北から劉表を攻撃するために去ると兄弟は再び争いを始め袁譚は敗走して平原に篭城した。 袁尚の攻撃が厳しいので郭図の進言に従って 部下の辛[田比]を曹操の元に派遣して救援を求めた。 曹操と袁譚は協力して袁紹を打ち破ったがそのとき袁尚から曹操に帰順した呂曠 と呂翔に将軍の印璽を渡していた。 曹操は袁譚の偽りの投降を見抜いていたが袁譚の娘と曹操の息子の婚約を行い袁譚を安心させた。 曹操が帰還すると袁尚はみたび袁譚を攻撃したがその隙をねらって曹操が[業β]を包囲したため袁尚軍は救援に引き返した。 しかし曹操軍に撃破され中山に逃げ込んだ。袁譚は袁尚に属していた冀州の諸郡を手に入れ、 袁尚を打ち破って幽州に逃亡させ、袁尚の軍勢を手に入れた。 しかし曹操が進撃してくると南皮まで退き篭城の末205年1月、曹操配下の曹純 の部隊に討ち取られた。
「演義」でも弟袁尚との骨肉の争いを演ずる。父袁紹には「殺伐とし過ぎている」と 評されて後継者に指名されなかった。南皮で曹操に包囲されると配下の辛評 を送り降伏を申し出るが認められず袁譚の元に戻ると袁譚は「弟(辛[田比])は曹操に寝返った。 君もか?」と問うと辛評は心外の余りショック死してしまう。