張倹が中常侍(宦官のリーダー格)の侯覧に狙われると、旧知であった孔融の兄の孔褒を頼った。張倹は孔融が まだ若いことから自分の素性を明らかにしなかったが、孔融は張倹を家に引き止めてかくまった。 事が発覚すると兄は弟をかばい、弟は兄をかばってお互い死を競った。 詔勅により孔褒が処刑されたが、このことで孔融は有名となった。
何進に推挙されて北軍の中候、虎賁中郎将と昇進した。 董卓が都を制すると孔融は諮問されるたびに諌言を行ったので煙たがられて左遷された。 黄巾軍の力が強くなり、北海国の相に任命された。着任すると兵を集めて訓練を施し、 諸郡に檄を飛ばして冀州から戻ってきた張饒ら黄巾軍二十万と戦い、敗れた。 朱虚県まで落ち延び立て篭もると再び人々が集まってきた。 再び黄巾軍の管亥が来襲し危機に陥った。 太史慈を使者として平原の相の劉備に援軍を求めた。 劉備の援軍により黄巾軍は退散した。
配下の左丞祖は策士の評判が高く、当時の情勢を考えて袁紹か 曹操につくように孔融に勧めたが、 孔融はこの二人が漢王朝を救う意思が腹の底では無いことが分かっていたので、 この意見に従わずに左丞祖を殺してしまった。
孔融は北海国に6年間駐在し劉備によって青州刺史に推挙された。196年、 袁譚の攻撃を受けて春から夏にかけて長い篭城戦となった。兵は数百しかおらず、 流れ矢が降り注ぎ城内での白兵戦が続いたが孔融は平然として読書をし談笑した。 落城すると身一つで逃げ、妻子は敵に捕まった。
その後孔融は献帝に招聘されて将作大匠(土木建築の担当官)を命ぜられ、 後に少府(九卿の一つ、天子の給養を司る)に昇進した。 朝廷では常に正論を吐いて議論に決着をつけ他の大臣たちは名ばかりの存在であった。 漢の文帝以来廃止されていた肉刑(入れ墨、足斬り、宮刑など)を復活させたいという議論が盛んであったが、 孔融がこれに反対する意見を述べたため見送られることとなった。 荊州牧の劉表は定められた朝貢を怠り、 天子のみに許される天地の祭を密かに行うなど僭上沙汰が多く、献帝は群臣の意見を求めた。 孔融は天子を僭称した袁術の件も含め、 今これを討伐しようとして失敗すると朝廷の体面がなくなり、 他にもこのような真似をする群雄が出てくる、今のところは自重して時が来るのを待つべきだと論じた。
曹操が[業β]を落とした際、袁氏の多くの婦女子が犯され、曹丕は 袁煕の妻である甄氏を自分の妻とした。 孔融は「昔、周の武王が紂を討った際、紂の妻の妲己を自分の弟の周公に賜りました。」と手紙を送った。 (もちろんウソ。紂王の悪行をさらにエスカレートさせた妲己は当然殺されています。) あてこすりに気が付かない曹操は後に「どの経典に出ているか?」と問うと孔融は 「当時のことから推し量りまして、そんなことだろうと思っただけです。」と答えた。
この他にも孔融は曹操に対してひねくれた発言を度々行い曹操の機嫌を損ねたが、 曹操は孔融の名声を考慮して我慢を続けた。曹操に仕えていた[希β]慮 は曹操のそれとない意向を汲んで、些細な咎を並べ立てて孔融を弾劾したため、 孔融は免職となり、[希β]慮と孔融は仇敵同士となった。 一年余りして太中大夫(宮中顧問官)に復帰した。閑職であるため毎日のように賓客が訪れていた。 「座敷にいつも客が充ち満ち、樽の中の酒が尽きなければわしは何も心配が無い。」と感慨深く言った。
曹操は度重なる孔融の言動に恨みを感じており、[希β]慮がさらに罪を捏造した。 曹操は路粋に命じて孔融を弾劾させて逮捕し、市場で処刑した。時に五十六歳であった。 妻子もみな死刑となった。
脂習は孔融と親交があった。 孔融が処刑されるとその遺体は放置されていたが脂習は遺体を撫でて泣いたため、 逮捕された。曹操は彼の素直さに感じ入って彼を許した。
曹丕は帝位にあって孔融の詩文を好み、天下に募って孔融の文章を集め、その褒美として黄金や絹を賜った。 (後漢書・孔融伝)
裴松之が引用する『九州春秋』は孔融に対して非常に批判的である。
孔融は人を用いるとき風変わりな者を好んだ。多くの場合彼らは軽薄な才能をもっていた。 学問のある人物に対しては表向きは敬意を表して礼遇したが、政治には関わらせなかった。 また孔融の議論や訓令は広く州郡に伝えられ気品のある見事な文章であったが、 事実に即して考えると、それをすべて実行するのは難しかった。 黄巾軍の攻撃を支えかねて城を捨てて一旦徐州に落ち、山東半島を味方につけて遼東と結び軍馬を得た。 これにより巻き返しを図ったが、辺境に逼塞し曹操や袁紹など中央の実力者と結ぼうとはしなかった。 左丞祖と劉義遜は優れた人物であったのにもかかわらず遠ざけられ、 王子法や劉孔慈などはむちゃな議論ばかりする人物であったが重用された。 結局袁譚の攻撃を退けられず、身一つで逃亡する羽目となった。
孔融は北海国に在任中、[丙β]原、王脩らを朝廷に推薦した。 鄭玄を慕い彼のために一つの郷を設けて鄭公郷と名づけた。
『典論』は孔融を評して「骨格、気品ともにすぐれていて他人の及ばぬものがあるが、 議論を展開するのはうまくない。」としている。 (魏書・崔[王炎]伝ほか)
青州をなぜ失ったかの説明はなく許昌にたまたま出てきたことになっており、 曹操が袁紹と開戦する際に袁紹の強さを論じて講和を主張するが荀[或〃]に論破される。 徐州で反乱をおこした劉備を討ちに行った劉岱と王忠 が敗れて戻ると斬ろうとする曹操を止めて劉表、張繍と講和を結ぶべきだと進言した。 この使者として[示爾]衡を推薦する。
曹操が新野の劉備を攻撃しようとすると、孔融は「天下の人望を失う」として反対した。 曹操は激怒した。[希β]慮に密告されたのも手伝い一家ともども打ち首となった。 脂習によって手厚く葬られた。
なお孔融の生年は定かではないのですが、李膺が河南尹に命じられたのが159年ですぐに免職となっていること、 李膺を訪れた時の孔融の年齢が10歳前後であったこと、曹操の烏丸討伐を批判していること(207年)、 56歳で死亡したことなどを考えると、150年代前半に生まれて赤壁の戦いの頃に処刑されたと考えるのが よさそうでしょう。つまり曹操とは同年代なのです。