王朗 景興(おうろう けいこう)


姓:王
名:朗
字:景興
生没年(?-228)
出身地:徐州東海郡[炎β]県
親:
子:王粛

経書に通じており、官吏に登用された。後に推挙があって三公の元で働く機会を得たが、それには応じなかった。 徐州刺史の陶謙の侍中となり別駕の趙cとともに、 長安の天子に使いを送って王命を承り、勤王の心を表すべきだと進言した。 趙cが使者に赴き、陶謙は安東将軍に、王朗は会稽太守に任命された。

着任すると、始皇帝を祭っていた会稽の習慣を始皇帝が徳のない君主であったとして止めさせた。 郡を四年間治め、郡民をいたわった。孫策が攻めてくると、 功曹の虞翻は孫策を力で防ぐのは難しいと考え逃げるよう進言した。 しかし王朗は戦って敗れ東冶に逃れ、結局孫策に降伏した。 孫策は王朗を問責しただけで罰を与えることはなかった。

曹操は王朗を招聘し、王朗は何年もかけて到着した。才能を認められ昇進が続いた。 曹丕が王に即位すると上奏して刑を減らし福祉政策を充実させるよう進言した。 曹丕が皇帝となると司空(建築大臣)に任ぜられた。他にも質素倹約を勧めた上奏、 孫権が藩国を称して魏に降った時の呉への対応方法の上奏など重要な意見を上奏した。 曹丕は王朗のことを尊敬していたという。

曹叡の代にも倹約を勧め、 世継ぎが次々と亡くなるのは過保護によるものだという上奏も行った。 226年には司徒に転任し功績を上げた。228年に病死、成侯とおくり名された。

王朗は『春秋』、『易』など様々な書物の注釈を著し、高い才能と学識を持ち、 なおかつ礼儀正しく謙虚であった。親戚からの贈り物すら受け取らず、貧しい者に進んで施したという。 (魏書・王朗伝)

「演義」では会稽太守として登場する。陶謙の元で働いていたという記述はない。 孫策に打ち破られた厳白虎を助けるが、 協力しても孫策には叶わず南方へ落ち延びていく。 その後話しはかなり飛んで曹操配下の文官として銅雀台完成の際に詩を献呈している。 魏への禅譲の際にも活躍を見せ、夏候楙諸葛亮 に敗れると曹真を推薦して自らその参謀として出陣する。 孔明と陣中で論戦を挑むが言い負かされて悶絶死した。


魏書、蜀書、呉書に広く登場し国を問わず多くの人から尊敬されていた人物です。 戦争は弱かったようですが、当時の最高級の知識人であったことは間違いないでしょう。 ただ、孔明は二回目の出師の表で王朗がなすすべもなく領地を孫策に奪われたことを 治世者の悪い例として挙げています。また、王朗らが蜀に降伏して藩国になるよう書簡を送ったところ、 諸葛亮は完全に無視し代わりに蜀の正統さを主張しました。 このあたりの対立が孔明が王朗を舌で殺す、という筋書きが書かれた背景かもしれません。 ちなみに息子の王粛は蜀攻撃を試みる曹真の参謀として従軍しています。
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