着任すると、始皇帝を祭っていた会稽の習慣を始皇帝が徳のない君主であったとして止めさせた。 郡を四年間治め、郡民をいたわった。孫策が攻めてくると、 功曹の虞翻は孫策を力で防ぐのは難しいと考え逃げるよう進言した。 しかし王朗は戦って敗れ東冶に逃れ、結局孫策に降伏した。 孫策は王朗を問責しただけで罰を与えることはなかった。
曹操は王朗を招聘し、王朗は何年もかけて到着した。才能を認められ昇進が続いた。 曹丕が王に即位すると上奏して刑を減らし福祉政策を充実させるよう進言した。 曹丕が皇帝となると司空(建築大臣)に任ぜられた。他にも質素倹約を勧めた上奏、 孫権が藩国を称して魏に降った時の呉への対応方法の上奏など重要な意見を上奏した。 曹丕は王朗のことを尊敬していたという。
曹叡の代にも倹約を勧め、 世継ぎが次々と亡くなるのは過保護によるものだという上奏も行った。 226年には司徒に転任し功績を上げた。228年に病死、成侯とおくり名された。
王朗は『春秋』、『易』など様々な書物の注釈を著し、高い才能と学識を持ち、 なおかつ礼儀正しく謙虚であった。親戚からの贈り物すら受け取らず、貧しい者に進んで施したという。 (魏書・王朗伝)
「演義」では会稽太守として登場する。陶謙の元で働いていたという記述はない。 孫策に打ち破られた厳白虎を助けるが、 協力しても孫策には叶わず南方へ落ち延びていく。 その後話しはかなり飛んで曹操配下の文官として銅雀台完成の際に詩を献呈している。 魏への禅譲の際にも活躍を見せ、夏候楙が諸葛亮 に敗れると曹真を推薦して自らその参謀として出陣する。 孔明と陣中で論戦を挑むが言い負かされて悶絶死した。