王粛 子雍(おうしゅく しよう)
姓:王
名:粛
字:子雍
生没年(?-256)
出身地:揚州会稽郡
親:王朗
子:王恂
十八歳のときに宋忠の元で勉強し、曹丕の時代に出仕した。
230年、曹真が蜀征伐に向かったとき、
長雨で道がぬかるみ、桟道はいたるところで壊れ、行軍は難しく撤退すべきだと上奏してこれが認められ、
曹真は退却することになった。曹叡が宮殿の工事で人民を苦しめるのを諌めたり、
曹爽の腹心である何晏らの行状を批判したりした。
曹芳が廃され、曹髦が帝位に即くことになると、
曹髦を迎えに曹髦の居城に向かった。
毋丘倹、文欽
の反乱を天文を見て予言したこともあった。
散騎常侍(天子の側近)にまで昇進して亡くなった。景侯とおくり名された。『論語』、『春秋左氏伝』、
『詩経』など様々な本の解釈を行い、多くの著作を残した。
なお娘は司馬昭の正室となり、司馬炎を産んだ。
(魏書・王朗伝)
「演義」では黄門侍郎として登場し、曹真の蜀征伐を止める。曹髦の皇帝即位が決まり、
参内する際にはお供をした。その後も司馬昭を大将軍に任命する際の使者となったり、
文官として活躍する。
父の王朗と同様、文才のある政治家であったようです。
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