曹叡の時代になると閑職に就くようになった。
曹爽が実権を握ると彼に迎合し、 才能もあったところから重用されて尚書に任命され、官吏の登用の実権を握り、さらには爵位も得た。 249年3月、曹爽がクーデターに失敗して失脚すると司馬懿は何晏に仲間たちを裁かせた。 何晏は仲間たちを厳しく裁くことにより自分は助かることを願った。 司馬懿は「罪人は全部で八家だ」と言った。何晏が丁、[登β]など七家の名を書き出すと、 司馬懿は「まだ足りない」と言った。何晏は追いつめられて「私のことですか?」と聞くと、 「そうだ」と答えた。このようにして何晏は逮捕され、一族もろとも死刑となった。
老荘思想を好んで様々な作品を残した。夏侯玄、 司馬師などとの交流も盛んであった。 また非常なナルシストであり、おしろいを手放さず、歩く時も自らの姿に振り返るほどであったという。 また何晏は管輅を招聘してその占いの技を試し、老荘について語った。 管輅はかなり手厳しいことを何晏に向かって言ったため、 管輅の周りの者はそのことを管輅に注意したが、管輅は「死人と話しているようなものなのに、 何の心配があろうか」と言って相手にしなかった。管輅の予言通り、何晏は死刑となった。 (魏書・曹真伝)
「演義」では曹爽の腰巾着という描写。曹爽の食客で司馬懿を政権から遠ざけるよう曹爽に進言する。 管輅の忠告を聞きいれないのも「正史」と同じで司馬懿に捕らえられ、死刑となる。
7年ぶりに加筆。。これでは何晏の評価としてはあんまりです(苦笑)。
何晏は古今の論語の注釈を集め、『論語集解』としてまとめました。
詳しい説明は教科書などに譲りますが、現存する最古の注釈書であり、現在でも広く読まれている論語の
解説書です。他にも王弼に影響を受けて『老子道徳論』を編纂するなど、
非常に横断的な学問を展開し、儒教と道教を織り交ぜた「玄学」と、
それを元にして魏や晋の時代に流行する「清談」への扉を開きます。
「蒼天航路」で曹操が何晏に「論語を読み解け」と命じるシーンがあります。 実際曹操が何晏にそのように命じたことはないと思いますが、 曹操の時代に進んだ訓詁学的な儒教の捉え方からの脱却を曹操自身に、 何晏の時代での玄学や清談に至る発展を何晏自身にそれぞれ仮託して、 二人の生きた時代を通じた思想の発展を表現しているのでしょう。
また彼が用いていた五石散という麻薬も流行します。 彼は魏晋南北朝時代屈指の流行の仕掛け人とも言えるのです。