袁術 公路(えんじゅつ こうろ)


姓:袁
名:術
字:公路
生没年(?-199)
出身地:豫州汝南郡汝陽県
親:袁逢
子:袁耀

若い頃は豪放で義侠心があったという。孝廉に推挙され地方や中央の職を歴任した。何進が宦官に 殺されると袁紹と共に宦官の虐殺を行った。 のち董卓の推薦で後将軍に任命されたが董卓を恐れ南陽に逃亡した。 ちょうど孫堅が南陽太守の張咨を殺害したところ だったので南陽を支配し反董卓連合に参加した。南陽は豊かであったため贅沢をして税金を盛んに 取りたてた。袁紹や劉表との仲にひびが入ると 公孫[王賛]と結んで対抗した。劉表に糧道を断たれると軍勢を率いて袁紹陣営の 曹操を攻めたが敗北が続き揚州に逃げ、その地を平定して寿春に本拠を定めて支配した。195年冬、献帝が 李[人寉]らに敗れると配下の者を集めて 「漢王朝は衰弱し世は乱れている。袁家は四代に渡って繁栄を極め、人望を集めている。 今人々の期待に答えたいと思うが諸君はどう思うか?」と問うと主簿の 閻象に反対された。結局197年に皇帝を名乗り、祭祀を行い、 後宮に美女を集めたが、配下の兵士は飢えと凍えに苦しむ様であったという。 また当時同盟関係にあった呂布に使者を送ったが呂布は その使者を捕らえて曹操のもとへ送り、使者は殺された。激怒した袁術は配下の 張勲を派遣し楊奉韓暹と 協力して呂布を攻めたが、楊奉らの寝返りにあって敗北した。9月に陳へ侵攻したが曹操が軍を率いて 向かっていると知ると軍を棄てて逃げ出し、橋ズイ らを守りに残したがすべて曹操に討ち取られた。呂布と曹操に立て続けに敗北し配下の 雷薄陳蘭を頼ったが受け入れてもらえず、 袁紹に帝位を譲ろうとして青州の袁譚の元へ向かおうとしたが途中で病死した。 ちょうど夏の盛りで袁術は蜂蜜の入った水を飲みたいと思ったがそのようなものはなかった。 「袁術ともあろう者がこんなざまか」と言うと一斗もの血を吐いて死んだという。 棺は親族の袁胤によってかつての配下、 劉勲の元に運ばれたが後に劉勲は孫権に破られ、 袁術の楽隊や女官は孫権のものとなった。 (魏書・袁術伝)

「演義」では袁紹の弟として登場し、宦官の虐殺を行い、反董卓連合には南陽太守として参加する。 袁紹が連合軍の総大将の座に就くと袁術は兵糧の管理を任された。孫堅が董卓軍を追いつめると、 彼が手柄を立てるのを不満に思って兵糧を止めたことがあったがそのくだりは「正史」にも記述がある。 孫堅が洛陽で手に入れ、息子の孫策に受け継がれた伝国の玉璽を孫策から献上されると閻象の諫言を 振り切って皇帝を自称するに至る。しかし劉備、呂布、曹操、誰と戦っても勝てず最後には部下にも 見放されて料理人に「蜜の入った水を持ってこい」と言うと料理人は「血の水ならございます、蜜の 水ならございません。」と返答した。袁術は大声を上げて血を吐き、絶命した。


後漢末、袁家は中国全土で大きな影響力を持った一族でした。袁紹が評判の面では群を抜いていましたが、 彼は妾の子であり袁術は自分こそが名門袁家の嫡流であると自認していたようにも思えます。 「正史」には袁紹と袁術の対立の理由は述べられていませんが、優柔不断なお坊ちゃまの袁紹と 自己中心的で過激な考え方を持った袁術、この親戚二人同士の対立が三国志序盤のストーリーを 盛り上げ、孫堅と孫策、曹操、劉備の運命をまるであやつるかのように左右して行くことになります。 皇帝を自称して結局は破滅の道を歩んでいきますが、 同じく皇帝になることを望んだ袁紹より先進的であったとも言えるのではないでしょうか?
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