後に遼西郡の役人として戻ったが、太守の劉基が法律違反で逮捕され、 日南郡(交州、現在のベトナム南部)に流罪が決まると米肉を捧げて 北芒山(洛陽北東にある漢帝国の王族の陵墓)で祈り、 交州への旅は危険で帰ってこられない可能性を覚悟して 先祖に別れを告げた。周囲の者達は公孫[王贊]のこの行いに感激した。 太守に同行したが、劉基は結局途中で赦免されたため帰還することが出来た。
孝廉に推挙され、遼東属国の長史となった。あるとき数十騎を率いて辺境の地を 巡回していると、数百騎の鮮卑族に出くわした。公孫[王贊]は部下を 人気の無い物見台に退かせ「いまここを突破せねば、皆殺しにされるぞ」と 部下を脅した上で部下を率いて突撃し、数十人もの敵を殺傷したが、 部下も半数が命を落とした。この事件以降、鮮卑族は公孫[王贊]を恐れて 国境を越えてくることはなくなった。これにより[シ豕]県の県令に栄転した。
張純と烏丸族の丘力居 が幽州で反乱を起こすと、たまたま涼州の反乱(辺章?)を 収める為に三千の騎兵を預かっていた公孫[王贊]は張純を打ち破り、 騎都尉に昇進した。烏丸族の貪至王は公孫[王贊]に帰順し、 中郎将に任命された。この後も数年に渡り遼東属国にて丘力居らと 戦いを続けたが、勝ったり負けたりの攻防が続き幽州一帯は荒らされた。
188年、劉虞が幽州牧として赴任すると、 丘力居らを慰撫して使者を送り帰順させようとした。 公孫[王贊]はこの使者を殺すなどし、この工作を妨害した。公孫[王贊]は 劉虞に兵を与えられて右北平に駐屯した。189年、張純は食客の王政に殺害された。
191年、青州・徐州の黄巾賊三十万が渤海郡に侵入し、黒山賊と合流しようとした。 公孫[王贊]は東光県でこれを撃退し、大量の捕虜や物資を手に入れた。 この功績で劉虞を大司馬に、公孫[王贊]を奮武将軍・薊侯に昇進させた。
長安に強制移住させられた献帝は 劉和をその父の劉虞の元に送り、 献帝を洛陽に迎えるよう画策した。ところが劉和は袁術 によって抑留され、袁術は劉虞に軍を送って貰えれば劉和と一緒に 上洛すると持ちかけた。劉虞は兵を袁術に送ろうとしたが、 公孫[王贊]は袁術がそのつもりが無いことを見抜いて、劉虞を 止めようとしつつ、袁術との仲を保つために従弟の公孫越に 兵を付けて袁術に派遣し、劉和とその軍勢を奪うよう命じた。 これにより劉虞との仲が険悪となった。
191年、公孫越が袁紹が豫州刺史に任命した 周昂(周[日斤]説もあり) と交戦中に流れ矢に当たって戦死すると 公孫[王贊]は激怒し、袁紹の治める冀州に攻め込み、磐河に駐屯した。
また袁紹伝によると袁紹は逢紀の策略に従い、 公孫[王贊]が以前から戦いを続けていた韓馥 を共に冀州から追って冀州を二分しようと 持ちかけていた。公孫[王贊]は約束どおり冀州に攻め込んだが、 袁紹は既に韓馥から冀州牧の地位を譲られていた。
袁紹は公孫[王贊]を恐れて渤海太守の印綬を公孫[王贊]の従弟の 公孫範に与えて懐柔したが、公孫範は渤海軍の兵を率いて 青州や徐州の黄巾賊を破り界橋まで進軍した。 そこで公孫[王贊]は厳綱を冀州刺史に、 田楷を青州刺史に、 単経を[亠兌]州刺史に任命して勢力を広げた。 そして劉備を高唐県に、単経を平原県に、 陶謙を発干県([亠兌]州東郡)に配置して袁紹に対抗した。 袁紹は麹義を大将として界橋に攻め寄せた。
公孫[王贊]は歩兵三万を中央に、騎兵を左右に翼のように展開させ、 その中心には「白馬義従」を配置して攻め寄せた。対する袁紹軍は 麹義に八百の騎兵を与えて先鋒とし、左右に千ずつの弩兵を配置した。 公孫[王贊]軍は少数の麹義軍に攻め寄せたが、羌族戦法を身に付けた 麹義の精鋭と弩兵により突破され、厳綱を討ち取られると総崩れとなり 幽州に退却した。
そこで袁紹は崔巨業に兵数万を与えて故安を攻撃させたが 公孫[王贊]はこれを自ら打ち破り、勢いに乗じて平原まで攻め寄せ、 田楷を斉に駐屯させた。2年余り戦闘が続き、民は両軍の略奪を受けて疲弊した。 193年、朝廷から派遣された馬日[石単]、 趙岐に従って袁紹と和議を結んだ。
以前より公孫[王贊]は異民族を力で押さえつけるべきだという考えであったため、 懐柔して従わせようとする劉虞とは意見が対立していた。 193年、劉虞が薊に攻め寄せると公孫[王贊]は劉虞を破り、居庸で劉虞を捕らえ 薊に連行した。そのころ董卓が死に、 朝廷は段訓を使者として送り劉虞に加増を賜ったが、 公孫[王贊]は劉虞が帝位を狙っていると誣告した上、劉虞を市中で死刑にした。
袁紹は袁譚を青州に送って田楷と戦わせた。 田楷は敗れて公孫[王贊]の元に逃げ帰った。
劉虞の従事であった鮮于輔、 斉周、騎都尉であった鮮于銀らは復讐のため、人望の高かった閻柔 を烏丸司馬に推挙して異民族と漢民族あわせて数万の軍を もって公孫[王贊]の漁陽太守の鄒丹と戦い、これを斬った。 袁紹も劉和と麹義に兵を与えて鮮于輔らを助け、195年には十万の兵で 公孫[王贊]と鮑丘で戦い、二万余の首を斬って大勝し、易京を包囲した。
この敗戦後、公孫[王贊]は流行していた童謡を元に易京に大城郭を築き、 屯田を行い大量の食料を自給して立て籠もり、外に軍を出さなくなった。 塹壕を十重に堀り、塹壕の後ろにはそれぞれ高さ五丈もの土山を築き、 土山の上には物見櫓を張り巡らせた。真ん中の塹壕の中の土山は 高さ十丈にも達し、公孫[王贊]はここに居住して女子供のみを 住まわせ、公文書は紐で吊り下げさせた。諸将もこういった楼閣を築き、 数は千にも及んだ。公孫[王贊]は「昔は自分の力ですぐに天下を 統べることが出来ると思っていたが、この時勢では今は動くべきでは ない。兵法に『百の楼閣は攻めず』とあるが、ここには千の楼閣が あるのだから、ここで農耕に励み敵の疲弊と天下の移ろいを待っていよう」 と語ったという。麹義の軍はやがて兵糧が尽きて退却した。
公孫[王贊]は州内の優秀な人材を見つけると、必ずその人物を法で罰して困窮に 追いやった。人々が何故かと聞くと「私が優遇してやってその者が富貴と なるとそれが当たり前だと思って、それ以降は私に感謝しなくなるからだ。」 と常に答えたという。公孫[王贊]の優遇する者は凡庸で不公正な人物が多く、 人心は離れていった。 また城の外で味方が敵に包囲されていても助ける構えを見せず、198年に袁紹が 再び攻め寄せると国境の軍は助けが来ないことがわかっており真っ先に降伏し、 袁紹軍は難なく易京を包囲できたのである。
公孫[王贊]は息子の公孫続を黒山賊の元に派遣し、 援軍を求めさせた。一方で自ら騎馬部隊を率いて包囲を突破し、 冀州を荒らして袁紹軍の補給を断とうと考えた。ところが長史の 関靖が公孫[王贊]が易京から いなくなると、易京は烏合の衆となり危機に瀕すると言ったため、 公孫[王贊]は代わりに公孫続に黒山賊と共に援軍として易京まで 出撃し、敵を共に叩くこととした。
199年、黒山賊の張燕は公孫続と 共に十万の兵を率いて援軍に駆けつけた。公孫[王贊]は公孫続に 文則を使者として送り「五千の鉄騎兵を北の湿地に伏せておき、狼煙を上げて 合図せよ、その合図で私も城から打って出る。」と打ち合わせた。 ところがこの手紙が袁紹の手の者に渡り、袁紹は手紙に沿って 狼煙を上げた。公孫[王贊]が出撃した先に伏兵を配して散々に これを打ち破った。公孫[王贊]はやっとの思いで易京の中の小城に 逃げ戻った。さらに袁紹軍は地下道を掘って土山の上の櫓まで 掘り進み、柱を立てて櫓を支えながら掘り進み、その後柱を焼き払うと 櫓は崩壊した。
公孫[王贊]はもう生き永らえないと思い、妻子を絞め殺し、 城に火を放って自殺しようとしたが、その前に袁紹の兵に首を取られた。
公孫[王贊]は元占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当らと 義兄弟の契りを結んでおり公孫[王贊]を一番の上の兄として「伯」、 あとは兄弟順に「仲」「叔」「季」と呼び合っていた。彼らは それぞれ大富豪であり、お互いの子供同士を結婚させていたという。
公孫[王贊]が率いた精鋭部隊である「白馬義従」は弓の上手い者を 白馬に乗せて左右から敵に襲い掛かる部隊で、異民族たちは「白馬を避けよ」 とお互いに言い合っていたという。また別説には異民族の中に白馬を 揃えた精鋭騎馬部隊がおり、公孫[王贊]のほうでも白馬を揃えてこれに 対抗したともいう。 (魏書・公孫[王贊]伝、後漢書・公孫[王贊]伝)
連合軍が解散となると北平に戻る。袁紹と共に冀州牧の韓馥を攻めて 冀州を二分する約束をするが、袁紹がこの約束を果たさず、逆に 使者として送った弟の公孫越を殺したため、激怒して冀州に攻め込み、 界橋で袁紹と対峙した。公孫[王贊]は袁紹をなじり、先鋒の 文醜と一騎打ちをするが、敵わず逃げ出す。追いつかれた所を 袁紹を見限って公孫[王贊]の軍に参陣しようとしていた趙雲 に助けられた。趙雲や劉備主従の助けを受けて公孫[王贊]軍は善戦するが、 結局董卓の差し金で朝廷から派遣された馬日[石単]、趙岐の 勧めに従って和議を結んだ。
曹操が徐州に攻め込むと陶謙の加勢に向かう劉備に兵二千と 趙雲を貸し出した。
劉備が呂布に負けて曹操の元に滞在していた頃、曹操が袁紹の下に 密偵として派遣していた満寵により、 公孫[王贊]の死が知らせられる。 公孫[王贊]は易京に籠城していたが、味方の兵が城外に居るのを 見捨てたために兵たちの離反を招き、また張燕に送った援軍の使者が 袁紹軍に捕まって、偽の合図を出されて打って出たところを伏兵に 攻められて兵の大半を失った。袁紹軍は坑道を掘って易京楼に 火をつけたため、公孫[王贊]は妻子を殺して自害した。
最初は勢いに乗っていた公孫[王贊]ですが、次第に袁紹に押されてくると彼の 性格の欠点が出て、人間不信に陥り自滅します。陳寿は「なすすべもなく 易京にて滅び、州郡を支配しながら一平民にも劣る」と誠に厳しい評価を下しています。 でも『演義』では劉備の味方であることから趙雲は公孫[王贊]を主君に選んだり、 気前良く劉備に兵を貸すなど、良く描かれています。