文醜(ぶんしゅう)
姓:文
名:醜
字:
生没年(?-200)
出身地:
親:
子:
袁紹配下の武将で、騎兵部隊を率いた。
官渡の戦いでは顔良と共に将帥に任命された。
白馬で顔良が曹操軍に討たれると袁紹軍は渡河し、延津の南に布陣した。
曹操軍は南阪に駐屯した。曹操は袁紹軍の兵が集まってくるのを見て、
自軍の騎兵に命じて鞍を外させた。また曹操軍の輜重部隊も合流してきた。
諸将は陣を立て直して迎撃するべきだと意見したが荀攸は
「これは敵を釣る餌だ」と言って動かなかった。曹操は荀攸に目配せして笑い、
この計略を採用した。
劉備
と共に騎兵を率いてきた文醜は陣形を崩して輜重隊に襲い掛かった。
しかし荀攸は機を見計らって総攻撃の命令を出し、文醜は曹操軍に討ち取られた。
荀[或〃]は文醜を顔良と共に匹夫の勇であり、将軍の器ではない。
一度の戦いでとりこに出来る、と評した。
(魏書・荀攸伝ほか)
『演義』では顔良と共に袁紹配下の代表的な勇将として活躍する。
身長八尺、牛の化身のような面構えをした、河北の名将として紹介される。
界橋の戦いでは公孫[王贊]と一騎打ちを行って打ち負かし、
逃げる公孫[王贊]を追うが、助太刀に入った趙雲
との一騎打ちとなり互角に戦うが、公孫[王贊]の兵が集まって来たので退いた。
官渡の戦いでは兄弟同然の仲だった顔良の仇を討つために劉備と共に出陣する。
やはり荀攸の計略にはまっておとりの輜重隊を攻撃すると、
張遼・徐晃
が襲いかかるが文醜は二人を撃退する。しかし関羽
が現れるとすぐに逃げ出した。
赤兎馬に乗った関羽は難なく文醜に追いつき、一刀の元に切り下げた。
『演義』では関羽の引き立て役ですが、『正史』
ではむしろ荀攸の鮮やかな計略の引き立て役となっています。
官渡以外の戦績は顔良も文醜も『正史』には見当たりません。
しかし天下統一を目前にした袁紹軍の先鋒を任されたことや、
関羽や荀攸の功績として顔良・文醜を討ち取ったことが挙げられているので、
評判の高い武将だったのでしょう。
『演義』では文醜は顔良を「兄弟同然の仲」と行っており、侠の関係を感じさせます。
袁紹も若い頃は「命知らずの連中を飼っている」と言われた人間であり、
他の人士と共に任侠の精神をもっていました。、
あるいは顔良・文醜はこの頃からの袁紹の古参の部下であったことも考えられます。
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