このとき[示爾]衡は24歳、当時許都には才能がある人物が多く集まっていたが、[示爾]衡は 一枚の名刺がボロボロになってしまうまで誰にも訪問しに行かなかった。ある人が 「陳羣や司馬朗のもとには行かないのかね?」と尋ねると、 「君は豚殺しや酒飲みに私を会いに行かせるつもりか?」と相手をなじった。 さらにその人が「それでは許都でましな人物と言えば?」と聞くと、 「年長では孔融、年少では楊修であろう。」と答えた。 「曹操、荀[或〃]、趙融 はみな一世を風靡する人物だとは思わないかね?」との問いには、「曹公は大した人物ではない、 荀[或〃]はその顔をもって弔問の使者に、趙融は台所を取り仕切らせるのが適任だ。」と答えた。 これは荀[或〃]が威儀のある風貌をしていたこと、趙融が太っていたことを理由に、 彼らは大したことがないと言っているのだという。
[示爾]衡は人々に憎まれていることを感じると荊州に帰ることにした。人々は送別の宴を開催したが、 示しあって「[示爾]衡は遅れて来るのだからこれまでの仕返しとして彼が来ても立たないでいてやろう」 と決めた。[示爾]衡が到着すると誰も立たなかった。[示爾]衡は突然泣き出したので人々が 「おやおや、どうしたのですか?」と聞くと「死体や棺桶の間にいてどうして悲しくならないものですか!」 と[示爾]衡は答えた。人々が押し黙って[示爾]衡を無視しているのを皮肉ったのであった。
荊州に戻って劉表に面会し手厚くもてなされた。その後黄祖 の息子黄射と元々仲が良かったため夏口に行き、黄祖の客人となった。[示爾]衡は後に傲慢になり、 黄祖に対して不遜な受け答えをしたため、黄祖は自分が罵倒されていると思い込み、部下に[示爾]衡を絞め殺させた。
別の文書によれば曹操は[示爾]衡との面会を度々求めていたが、[示爾]衡は嫌がり、これに怒りを覚えていた。 気違いになったと言ってこれを断り、曹操に対して悪口を言っていた。曹操は[示爾]衡に恥をかかせるため、 鼓を打つ役人に彼を任命して宴会に呼び出した。鼓打ちは間違えると服を着替えて演奏を続けるという ルールがあった。[示爾]衡は「漁陽参過」という鼓の打法を行い、これが絶妙な調べであったため、 一同は感動した。打ち間違えても着替えようとしなかったため、役人に怒られるとその場で素裸となって 着替え、演奏を続けた。曹操は「彼に恥をかかせるつもりが逆に恥をかかされてしまった。」と舌を巻いた。 孔融は[示爾]衡を激しくとがめたが、[示爾]衡は逆に言い返し、曹操の悪口を並べ立てた。 曹操は激怒し、馬に[示爾]衡を乗せて強制的に荊州に送り返した。 「小僧([示爾]衡)を殺すのはたやすいが、彼には虚名があり、殺したら私の包容力がないことになる。 劉表に送りつけて彼がどうなるか見届けよう」と曹操は言ったという。 (魏書・荀[或〃]伝)