207年、袁尚と袁煕が 曹操に敗れて烏丸の将兵ら五千と共に遼東郡に 落ち延びてきた。公孫康は袁尚らが自分を殺して遼東を奪うつもりだと読み、 また曹操が袁尚を破った後にあえて遼東に兵を進めずに引き返したことから、 曹操が遼東を攻めるつもりが無いと見抜き、袁尚と袁煕を殺して首を曹操に送った。 これにより公孫康は襄平侯となり、左将軍に任命された。
その他建安年間(196-220)には高句麗を攻撃してその都を陥落させた。 高句麗王の伊夷模の兄であった抜奇 はこのとき公孫康に三万余りの民と共に帰順した。 また楽浪郡の南部を分割して帯方郡を設置し、 公孫模、張敞らを派遣して帯方郡で徴兵を行い、 韓[シ歳]を討伐した。これにより周辺の韓・倭などの異民族は帯方郡の支配を 受けるようになった。
公孫淵の曹叡への上表によれば、 孫権からの使者を殺したという。 また曹操は中原の乱を避けて遼東に住んでいた 管寧を招聘しようとしたが、 公孫康はその命令を拒んで管寧に伝えなかった。
公孫康が死ぬと、二人の息子はまだ幼かったため、弟の 公孫恭が後を継いだ。 没年は不明だが曹丕 の皇帝即位時に公孫康は大司馬の位を追贈されているため、 曹操の存命中に死亡したと思われる。 (魏書・公孫度伝、東夷伝)
倭と韓が帯方郡に属したとの記述が東夷伝にありますが、邪馬台国も 魏に使者を送る前は公孫氏と関係を結んでいたということになります。 卑弥呼は公孫氏政権が滅んだ直後に魏に使者を送って 親魏倭王に封じられているので、公孫氏ら朝鮮半島の情勢には精通していたことが分かります。