公孫晃(こうそんこう)
姓:公孫
名:晃
字:
生没年(?-238)
出身地:幽州遼東郡襄平県
親:公孫康
子:
公孫康の息子で公孫淵の兄。
父が亡くなると公孫晃はまだ若かったため、
叔父の公孫恭が父の後を継いだ。
公孫晃は人質として洛陽に送られ、宮廷で職に就いていた。
公孫淵が叔父の公孫恭を追い落として遼東太守の地位を奪うと、
公孫晃は公孫淵が結局は反乱を起こすであろうと思い、
遼東を討伐するよう曹叡にしばしば上表した。
しかし魏では公孫淵が既に遼東で勢力を確立しており、また遠いことから、
公孫淵に爵位を与えてその地位を保証していた。
公孫淵が謀反を起こすとその一族として公孫晃は拘束された。
公孫晃は以前の上表のこともあり、自分は処罰されるべきではないと
申し出ていたが、一方で自分が助かり難いことも覚悟していた。
公孫淵の首が洛陽に届くと息子と抱き合って泣いた。
曹叡は公孫晃を助けようと思っていたが、廷臣たちの意見もあり結局殺すこととなった。
そこで曹叡は市中での公開処刑ではなく獄中で自害を強要するよう
命じた。廷尉の高柔は
「公孫晃は反逆者と同類であり公開処刑は当然ですが、
もし過去の上表に免じて助けるなら正々堂々と赦免するべきです。
うやむやに獄中で殺して人々の不信を買ってはなりません。」と
進言したが、結局曹叡は公孫晃とその妻子に金の屑を贈り、
それを飲ませて自害させた。
(魏書・公孫度伝、高柔伝)
『演義』では公孫淵の兄として名前が出るが、とくに行動などは描かれない。
人質として都に送られ兄の性格を知っていてか、反乱を予言してその討伐を
進言します。その処分に対して進言する厳格かつ硬骨漢である廷尉(最高裁判官)の高柔は
袁紹の甥である高幹の甥(従弟説もあり)、
つまり袁紹の息子袁尚とは同世代の親戚にあたります。
そして袁尚は公孫康に殺されましたので公孫晃は親族の仇ということになります。
因縁深い巡り合わせですがこの事件に関わる高柔の心中は如何なものだったのでしょう。
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