232年、孫権は周賀と裴潜を遼東に派遣したが、 魏の武将田豫に打ち破られた。 同年公孫淵は宿舒と孫綜を派遣し、呉の藩国となりたい旨を申し入れた。 そこで孫権は臣下の反対を押し切って張弥・許晏・賀達を遼東に派遣し、 公孫淵を燕王に封じた。ところが公孫淵はこの使者を殺害して 曹叡に送り、随行の軍隊財宝を奪った。これにより233年に公孫淵は 太守と持節(専断権)の地位に加え、大司馬に命じられ楽浪公に封じられた。
237年、孫権は高句麗と通じて遼東への出兵を試みた。 そこで魏は毋丘倹に烏丸・鮮卑を率いさせ遼東に駐屯させた。 孫権は臣下こぞっての反対を受けて親征を思いとどまった。 またこのとき公孫淵は都に出てくるよう命じられた。 これに従わず公孫淵は軍を起こして毋丘倹と遼隧で戦い、これを破った。 これにより自信を付けた公孫淵は自立を宣言して燕王を名乗り、 年号を紹漢と定め、周辺の民衆を支配し、 異民族に玉璽を与えて魏の辺境を荒らさせた。
238年、魏では司馬懿に四万の兵を与えて公孫淵討伐を命じた。 公孫淵は卑衍・楊祚に 歩兵騎兵数万の軍を率いさせ遼隧に駐屯させた。 卑衍が胡遵に破られると司馬懿は一旦東南に退いた後、 急きょ方向転換して襄平に向かった。卑衍らは本拠を付かれる心配から 撤退した。この後各所で敗退を繰り返して襄平を囲まれた。 長雨にたたられて食料が尽き公孫淵は襄平を出て落ち延びようとするが、 結局捕らえられて殺された。 (魏書・公孫度伝)
ところで公孫氏政権の滅亡により、倭の国は直接魏と接触し、 大陸の文化を吸収することが可能になりました。 卑弥呼の使者が帯方郡に着くのが238年、 親魏倭王の印璽を授かるのが240年。まさに公孫氏滅亡の年なのです。 おそらく倭は公孫氏の滅亡を見据えて(あるいは滅亡したので) 魏との交流を求めて使者を送ったのでしょう。 もし公孫氏が滅亡せずにこの後も遼東半島に居座っていれば、 日本による中国の文化吸収もそれだけ遅れていたかもしれません。