胡遵(こじゅん)
姓:胡
名:遵
字:
生没年(?-256)
出身地:雍州安定郡臨[シ兆]県
親:
子:胡奮、胡広、胡烈、胡岐
文武の才をあわせ持ち、張既によって召し出された。
233年、司馬懿の命により反乱を起こした匈奴の胡薄居姿職を討伐し、
降伏させた。
238年、公孫淵討伐に従軍し、
遼隧にて卑衍、楊祚を打ち破った。
252年、孫権の死後を狙って呉の討伐を合同で上奏し、
征東将軍として王昶、毋丘倹
と共同で呉を攻めた。諸葛恪
が築いた水辺の東興城を浮橋を作り歩兵騎兵七万で包囲するが、
諸葛恪軍の攻撃に大敗し韓綜、桓嘉
らの将軍と大勢の兵を失った。
255年、衛将軍に昇進した。文欽・
毋丘倹の反乱の討伐のため青州・徐州の兵を率いて[言焦]と宋に駐屯して退路を断った。
車騎将軍にまで昇進し256年7月5日に死去した。
(魏書・鍾会伝)
『演義』でもほとんど同じ。遼東遠征では悪天候に苦戦しながらも勝利を収める。
東興では呉の丁奉に敗れて配下の武将を失うが、
文欽討伐で活躍して名誉挽回。
伝は立てられていませんが、長い間魏で活躍し高位に登った武官です。
記述が少ないのは資料が無かったせいなのでしょうか。
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