董卓の部将の徐栄が同郷であり、 彼に推挙されて184年に遼東太守に就任した。 遼東郡の人士は公孫度が権勢の無い家の出であったため公孫度のことを侮っていたが、 公孫度は以前彼を冷遇した有力な豪族ら百余家を殺害したため、郡全体が従うようになった。 軍を率いて西の高句麗や東の烏丸を征伐し、その勇名を広めた。
また夫余族の王である尉仇台を屈服させ、一族の娘を妻として与えた。 これにより夫余に隣接する鮮卑と高句麗を牽制した。 また高句麗王の伯固と協力して富山の賊を討伐した。
190年、公孫度は配下の官吏の柳毅、 陽儀らを集め、漢の命運が尽きようとしており我々は王を目指すべきだと語った。 遼東郡を分割して遼西郡と中遼郡を置き、海を渡って東莱郡を攻め取り営州刺史を配置した。 遼東侯・平州牧を自称して漢王朝から自立、父に建義侯の位を追贈し、 皇帝のみに許される様々な儀式を執り行った。
204年、曹操は公孫康を武威将軍に任命するよう上表し、 永寧郷侯に封じたが、公孫度はその印綬を受け取ると「何が永寧郷侯だ、私は遼東の王なのだ」 と言い、印綬をしまい込んだという。この年、公孫度は病死した。 息子の公孫康が後を継いだ。
当時遼東には中原(とくに青州)の戦乱を避けて多くの名士・文化人が 公孫氏の善政と安定を聞きつけて遼東に避難してきていた。 公孫度やその後継者たちはそれら名士たちを招いたが、実際公孫度に 仕えた者は少なかった。
遼東郡の劉政は武勇の人として知られており 公孫度は彼を恐れて殺害を目論んでいた。 遼東に避難していた[丙β]原は彼を東莱郡に戻ろうとしていた 太史慈に預けて脱出させた。後に[丙β]原も故郷に逃げ帰ったが、 後から知った公孫度は「白鶴をうずらの網で捕えることはできない、 ましてや彼を行かせたのは自分なのだから」と嘆いた。
管寧も王烈 らと共に乱を避けて遼東に来ていたが、管寧は公孫度と会うと 経典の話題のみで政治については語らずに辞去し、山野に盧を結んで講義を続けたところ、 彼の周辺に人士があつまり人民が教化されたため、公孫度は管寧を危険視した。 王烈も商人に身を落としつつ講義を行い、決して遼東の政治には関わらなかった。
公孫度は楽浪太守に赴任しようとした涼茂を遼東に引き留めていた。 公孫度が「曹操は[業β]を留守にして遠征に出ている。今こそ[業β]に 攻め込もうと思う。」と語ると群臣は同意したが涼茂は公孫度が天下の乱を 座して傍観しているだけなのに対して曹操は精鋭を率いて東奔西走しており 遼東が遠いためにまだ公孫度の罪を問えないだけだと断言した。 群臣は何も言えず、公孫度も涼茂の意見を容れて遠征を行わなかった。 ところが裴松之は公孫度が204年に死んでおり、曹操が[業β]を手に入れたのも 204年でそれ以降の遠征は207年まで無いと指摘している。 (魏書・公孫度伝、東夷伝)
公孫度の重要な事跡としてはむしろ朝鮮半島の諸民族に与えた影響が 大きいと言えますが、事跡の時系列が今ひとつ不明確なところが多いです。 遼東太守の就任が184年との記述がありますが、この時期董卓はまだ 涼州におり、その部将の徐栄が公孫度を推挙するほど力があったかは疑問です。 高句麗と協力して富山の賊を討ったのも朝鮮側の史書の「三国史記」では 169年とあり公孫度の事跡ではない可能性があります。 このあたり公孫度の前後の遼東太守の事跡との混乱があるように思えます。
ちなみに公孫[王贊]との血縁関係は無いように思えますが、、 公孫[王贊]と公孫度は距離が遠いながら隣接する勢力でした。 しかし争ったとも協力したとも書かれてなく、そもそも二勢力の関係については全く語られていません。 どのような関係だったのでしょうか?