趙雲 子龍(ちょううん しりゅう)


姓:趙
名:雲
字:子龍
生没年(?-)
出身地:冀州常山郡真定県
親:
子:趙統趙広

公孫[王贊]の部下だったが、公孫[王贊]配下の田楷袁紹と戦い、救援に劉備 が向かう際に趙雲は劉備に随行した。そのまま趙雲は劉備の主騎(親衛隊長?) となった。長坂で劉備が曹操に敗れて逃走すると、 趙雲は張飛諸葛亮と共に数十騎で 劉備を守って逃げた。阿斗(後の劉禅)とその母である 甘夫人を保護し、危機から守った。 牙門将軍に昇進した。劉備が蜀に入った際、趙雲は荊州に留まった。

劉備が葭萌関を越えて劉璋との戦いを始めると、 諸葛亮は張飛と趙雲を率いて長江を遡り、諸郡県を平定した。 江州で諸葛亮は趙雲に別の川を通って成都で落ち合うように命じた。 成都が平定されると翊軍将軍となり、後に鎮東将軍まで昇進した。 227年、諸葛亮に従って漢中に入り、翌年斜谷道を通ると宣伝しつつ、[示β]山に向かった。 趙雲と[登β]芝はおとりの弱兵を率いて斜谷で曹真 の大軍と戦って敗れたが、趙雲は守りを固めて大敗には至らなかった。鎮軍将軍に降格となった。 229年に死去、261年に順平侯の諡号を贈られた。『季漢輔臣賛』では趙雲は重厚にて 精鋭を率いて猛将として勲功をあげたと称される。


裴松之に引用された『趙雲別伝』によると身長八尺で雄々しい姿をしていた。 真定郡に推挙されて義勇兵を率いて公孫[王贊]に加勢した。当時劉備も公孫[王贊]に 従っており、劉備は趙雲を高く評価していたため趙雲と親しくなった。 後に趙雲は兄の喪に服して公孫[王贊]の元を去ったが、劉備が袁紹の元に身を寄せた 際に[業β]で再会した。趙雲は劉備と同じ床で眠り、劉備のために数百の兵を集め、 彼らは皆「劉左将軍の部下」と称していたが袁紹は気が付かなかった。そして 劉備に従って荊州に随行した。

博望で夏侯惇と戦った際に、夏侯蘭を生け捕りとしたが、 趙雲は彼を法律に明るい者として推薦した。また劉備が(長坂で?)敗北した際、趙雲は北に去った と言った者がいた。劉備はその者を手戟で打ち、「趙雲は私を見棄てはしない」と 答えた。荊州南部を劉備が平定すると、偏将軍・桂陽太守となった。 元の太守の趙範は兄の未亡人であり大変な美人であった 樊氏を趙雲の夫人に勧めた。この縁談を勧める者もいたが、 趙範は迫られて降っただけなので信用できない、女は他にも沢山いるからと同姓を理由に断った。 劉備が蜀に入ると、荊州で留守を守った。 このとき孫夫人孫権 の妹ということで驕慢にふるまっており、劉備はその押さえとして趙雲を残した。 呉は船を多くよこして孫夫人を迎えにきて、劉禅を呉に連れて行こうとしたが、 趙雲は張飛と共に劉禅を奪還した。

漢中で劉備と曹操が戦った際、黄忠 は趙雲の兵を率いて曹操軍の運ぶ米を奪おうとした。 黄忠が帰ってこないので趙雲は数十騎を率いて曹操の先鋒と戦い、曹操の本隊が来ると 突撃をかけて戦いつつ退いた。味方の将軍の張著 が負傷すると再度敵陣に引き返して張著を助け出した。 曹操軍が追撃して趙雲の陣に攻め寄せると、趙雲は張翼の反対を 押し切って陣門を開け放ち、旗を降ろした。曹操は伏兵を疑って退いたがそこに 軍鼓を盛んに鳴らしながら弩を射たところ、曹操軍は驚いて大混乱となって退いた。 劉備は翌日趙雲の陣を視察し「子龍は体がすべて肝っ玉でできている」とほめた。

孫権が荊州を襲うと、劉備は激怒して孫権を討とうとした。 趙雲は反対したが劉備は聞かず、趙雲を江州に残した。劉備が敗北すると趙雲は 永安まで兵を進めたが呉軍は既に退いていた。街亭の戦いでは箕谷に進駐したが 馬謖が敗退して撤退した。 後に諸葛亮が[登β]芝になぜ趙雲の軍はバラバラにならず撤退できたかを聞くと、 趙雲が自ら後詰めつとめて兵をまとめたからだと[登β]芝は答えた。 諸葛亮は物資の絹を趙雲に与えようとしたが、趙雲は負け戦なのに褒美を貰うわけにはいかないと答え、 冬に支度品として与えるべきだと進言した。諸葛亮はこれを大いに善しとした。 (蜀書・趙雲伝)


『演義』の趙雲は『正史』に引用される『趙雲別伝』をさらに脚色した形で描かれる。 脚色されている点としては、界橋の戦いでは文醜に追われる公孫[王贊]を助け、 さらに襲ってきた麹義を討ち取る活躍を見せる。後に武者修行の旅に出、 山賊の裴元紹を殺すがこれをきっかけに劉備と再会。汝南で曹操軍と戦い、 許[ネ'者]と互角に戦うが結局軍は敗れて荊州に落ち延びる。

新野では盗賊の張武を討ち取り名馬的盧を手に入れて劉備に献上する。さらに 徐庶の戦術に従って呂曠を討ち、李典 を打ち負かす。長坂の戦いでは阿斗を守って奮闘。 夏侯恩を討って名刀である「青[金工]の剣」を入手し、その剣のオーラにも 守られながら晏明、鍾縉、鍾紳らを討って血路を開く。桂陽攻めでは陳応を 討って趙範を降し、義兄弟となる。樊氏との縁談を断った逸話は『趙雲別伝』と同じ。

蜀攻めでは『正史』通りに諸葛亮に従い、途中からは別行動で諸郡を平定した。 綿竹では劉ラ、馬漢を討ち取って馬超を感心させる。曹操が漢中に攻め込んだ 際にわざと陣門を開け放って劉備に誉められた逸話は『趙雲別伝』と同じ。 夷陵の戦いの前には怒りに任せて呉と戦おうとする劉備を諌める。

孔明の南征では金環三結を討ち取ったり何度も 孟獲を捕えるなど活躍。 第1次北伐では韓徳とその四人の息子を討ち取り、 老いてもなおも存在感を示す。夏侯楙 を追い詰めたが敵の策に嵌って包囲されたところを関興張苞に助けられた。 天水城攻めでは姜維の槍さばきに驚き、孔明に報告した。 街亭の敗北後の見事な撤退劇も『趙雲別伝』と同じである。

孔明は軍議の最中に松の枝が風に吹き折られたのをみて「大将の死」を占う。 直後の趙統と趙広が来たとの知らせに趙雲の死を悟った。孔明は片腕を もがれたようなものだと嘆き、劉禅は趙雲がいなければ幼い頃死んでいた、 と趙雲の死を悼んだ。


『演義』では冷静沈着で、与えられた任務を忠実にこな名将軍というイメージですね。 世の中の趙雲に対する一般的なイメージとなっていると思います。 ところが『正史』の記述だけの範囲で読んでみると、「冷静沈着」と「任務を忠実にこなす」 は当てはまるのですが、関羽や張飛と比べて自らの判断で単独の軍を率いる責務を担ったことは ほとんどありません。あくまでも支軍として本隊に従って動く程度の働きなのです。

こんな推測を書くと、世界に何百万といる趙雲ファンを敵に回してしまい怖いのですが^^;  趙雲の当時の将軍としての評価は、関羽・張飛・馬超・ 黄忠の次、5番目くらいだったのではないかと思うのです。 260年に上記の四人+[广龍]統 に諡号が贈られましたが、趙雲は翌年に追加で諡号が贈られています。 これが当時の人々の評価の序列を表していたのではないでしょうか。

むしろ趙雲の『正史』での真骨頂は長坂で阿斗を守り抜いたり、孫夫人を追いかけて阿斗を奪還したり、 「空城の計」で曹操を退けて「一身これ胆なり」と賛嘆されたり、個人的武勇にあると思います。 劉備およびその家族の親衛隊長という任務も荊州時代までの劉備軍団の中で趙雲が担ってたのでは ないでしょうか。曹操軍団における許[ネ'者]や典韋 の役割とも近いのかもしれません。

ただ当時の趙雲への評価が関羽や張飛に比べてどうであったとしても、後世に伝えられた 趙雲伝説を曇らせるものでは一切ありません。『正史』に記述された趙雲の武勇伝は『演義』で 民衆の心をがっちりと掴み、今日の趙雲の人気を支えています。 我々にとっての趙雲は今後もずっと知勇兼備で冷静沈着な名将であり続けることでしょう。

なお『趙雲別伝』は成立年代や著者などが一切不明の文書ですが、特に『正史』の中の 他の部分との矛盾は無く、特に孫夫人が連れ去った阿斗を奪還する部分は『漢晋春秋』からの 引用(穆皇后伝)とも共通しています。『趙雲別伝』の内容を疑問視する説はありますが、 全くのデタラメという論調は言い過ぎだと思います。


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