姜維 伯約(きょうい はくやく)


姓:姜
名:維
字:伯約
生没年(?-265)
出身地:涼州天水郡冀県
親:姜冏
子:

幼くして父を失い、母と暮らし鄭玄の学問を学んだ。功名を立てるために決死の士を養っていたという。 天水郡の上計掾となり、次いで涼州の従事になった。諸葛亮 率いる蜀軍が[示β]山に向かった際、天水太守の馬遵 は姜維らを引き連れて巡察に出ていた。諸県が蜀軍に呼応していたため馬遵はこれを恐れて 逃亡し、上[圭β]に向かった。それを知った姜維らは馬遵を追ったが、上[圭β]に入れてもらえず、 故郷の冀県でも門を閉ざされたので、仕方が無く蜀に降った。蜀は魏軍に敗北し、撤退したので 姜維は母と離れ離れになった。

別説には一行は巡察中に蜀軍が攻め寄せたため、冀県に戻るのを恐れた馬遵を姜維は諌めたが 聞き入れられず、冀県に戻ると姜維は推されて蜀軍への降伏の使者となったのだという。

諸葛亮は姜維を高く評価して「馬良以上であり涼州で最高の人物」だと称えた。特に軍事面での期待が高く、 奉義将軍・当陽亭侯に封ぜられ、後に中監軍・征西将軍に昇進した。 諸葛亮が死ぬと姜維は楊儀に命じて軍旗を翻し軍鼓を叩き、 気勢を上げたため司馬懿は退却した。 成都に帰還すると右監軍・輔漢将軍に任命され、平壌侯に封ぜられた。 238年には蒋[王宛]に従って漢中に駐屯した。 蒋[王宛]が大司馬に昇進すると姜維は司馬となり、 軍を率いて西方に侵攻した。240年、隴西に出陣したが郭淮に撃破された。 243年には涼州刺史。鎮西大将軍に昇進した。

247年には衛将軍に昇進し、反乱をおこした[シ文]山郡の異民族を鎮圧した。隴西に出陣し、 郭淮・夏侯覇と交戦した。 俄何焼戈、 治無戴らに率いられた羌族が魏に対して反乱を起こしていたが、 羌族は郭淮らに撃破された。姜維は治無戴らを保護するため廖化 を成重山に派遣した。郭淮は主力を率いて素早く廖化の攻撃に向かったため、 姜維は羌族と接した有利な地勢を放棄して廖化の救援に向かった。 かくして廖化を救うことが出来たがその後治無戴らを連れて成都に帰還した。

249年、再び隴西に進入した。一度は勝利を得られず退却したが、郭淮が蛮族討伐に向かったので その3日後に廖化を再び白水の南岸に陣を築かせ、姜維は[シ兆]城に進撃した。 ところが白水の北岸で郭淮の留守を守っていた[登β]艾は姜維の意図を察知して[シ兆]城に向かい、 姜維を防いだので、結局攻めきることが出来なかった。句安李韶が魏に降伏した。250年にも西平に出陣したが勝利を得られずに帰還した。

姜維は西方の異民族とはよしみがあり、隴西を占領して魏から涼州を切り離してしまおうという考えを 常に持っていたが、費[ネ韋]は姜維に向かって 「丞相(諸葛亮のこと)でさえ中原を平定することは出来なかったのに、 まして我々では問題にもならないであろう。功績を上げるのは才能のある者を待ってからにして、 今は社稷を守るに越したことはない。僥倖を頼んで決戦を求め、敗れたら取り返しのつかないことになる。」 と言い、姜維の軍事行動に常に制限を加えた。

253年、費[ネ韋]がなくなると姜維は武都より進撃して南安に篭る陳泰 を包囲したが、兵糧が尽きて撤退した。翌年呉の諸葛恪 と呼応して再び隴西に出陣、狄道の李簡を寝返らせて狄道を押さえた。 さらに襄武で徐質を討ち取り、狄道、臨[シ兆]の住民を拉致して帰還した。 さらに翌年、夏侯覇と共に魏の雍州刺史、王経を[シ兆]西にて散々に打ち破った。 王経が逃げ込んだ狄道を包囲するものの、陳泰の援軍が向かってきたので退却し、 南安で[登β]艾と対峙した。要害の地を争う戦いが続いたが勝利が得られず、 渭水を渡って鍾題に退いた。

256年、大将軍に昇進した。 胡済の軍勢と上[圭ト]で落ち合う予定で進軍したが、胡済がたどり着けず、 段谷で[登β]艾の軍に大敗を喫した。姜維は自らの過ちを認めて自分を後将軍に降格させた。 257年、諸葛誕の反乱に応じて駱谷道を経て秦川に出た。 司馬望・[登β]艾と対陣し、 姜維は戦いを求めたが[登β]艾らは堅く守り続け、258年に諸葛誕の敗北を知ると退却した。 262年にも魏に侵攻したが侯和において[登β]艾に撃破されて沓中に退いた。

こうして連年戦いに明け暮れながら手柄を立てることが出来ない姜維に対し、 蜀で実権を握っていた宦官の黄皓は右将軍の閻宇 と謀り、姜維を漢中から呼び戻して閻宇に代わらせようと画策した。 そのような動きを知っていた姜維は成都に戻ろうとはしなかった。263年、姜維は上奏して 「鍾会が関中にて蜀侵攻を企てています。 張翼・廖化に陽平関・陰平を守らせてこれを防がせるべきです。」 と意見したが、黄皓は巫女の言葉を信じて敵が来ないとして、劉禅 にこの上奏を取り上げないように進言した。このことで、成都では備えを何も行わなかった。

鍾会、[登β]艾、諸葛緒らが漢中に侵攻を始めたため、 姜維は廖化、張翼、董厥らと共にこれを防いだ。 [登β]艾が姜維の軍に当たり、諸葛緒は自分の陣営を出て姜維の背後を押さえるために橋頭に駐屯した。 姜維は諸葛緒の陣営に向かい進軍し、諸葛緒がこれに備えるために三十里後戻りした隙をついて 橋頭を通過し、剣閣に向かった。鍾会らは漢城を包囲し、蒋舒は降伏、 傳僉は討ち死にした。 姜維らは敗残兵を引き連れて蜀への入口である剣閣に立て篭もった。鍾会は剣閣を落とすことが出来ず、 姜維に降伏勧告を行ったりしたが、姜維はこれに応じなかった。兵糧の補給が困難になり、 退却を考え始めたが、[登β]艾は陰平から景谷道を通って綿竹に至り、諸葛譫 を破って成都に進撃、劉禅を降伏させた。姜維らは当初、劉禅の降伏の真偽が分からず、 成都に向かいながらその真偽を確かめようとし、剣閣から巴に出た。 胡烈[广龍]会田続 らの追撃を受けながら広漢郡に来たところで劉禅からの勅令を受け降伏した。 将兵は怒りのあまりに剣を石に叩きつけて嘆いた。 鍾会が姜維に「来るのが遅かったではないか」と言うと姜維は涙を流して 「私が来るのは早すぎたくらいです」と答えたという。

鍾会は姜維のことを高く評価し手厚くもてなした。杜預に 「姜維を中原の人物と比較すると諸葛誕や夏侯玄らも彼以上ではないな」 と語ったという。鍾会は[登β]艾を逮捕して中原に送り返し、 益州牧を自称し、姜維に五万の兵をつけて先鋒とした。 しかし魏の将兵はこれに怒って鍾会や姜維らを捕らえて殺害した。このとき姜維の妻子もみな処刑された。

『漢晋春秋』、『華陽国志』などでは姜維は鍾会の反逆の意図を見抜き、 反乱を起こさせた上で鍾会を殺し、劉禅を呼び戻して蜀を復興させようという計画を持っていたという。 (蜀書・姜維伝)


『演義』では諸葛亮の弟子であるという面を強調するためか、正史では記述の無い、 諸葛亮存命時の活躍が詳細に描かれる。諸葛亮死後はほぼ正史どおりだか、 [登β]艾との一騎打ちの場面が数多く描かれ、物語を盛り上げる。
有能だったのか、そうではなかったのか、蜀の滅亡の原因を作ったのか、 それとも蜀は彼がいたからこそ持ちこたえたのか、議論が終わることの無い人物ですね。 蜀滅亡劇の中の悲運の人物の一人ですが、彼の悲運はあるいは諸葛亮に捕らわれて、 母を見捨てて蜀に降ったところから始まっているのかもしれません。
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