胡烈 玄武(これつ げんぶ)


姓:胡
名:烈
字:玄武
生没年(?-?)
出身地:雍州安定郡臨[シ兆]県
親:胡遵
子:胡淵

257年、泰山太守として諸葛誕の討伐戦に参加。 孫[糸林]の命で諸葛誕を救援にきた朱異石苞州泰 に敗れて守りを固めていた。ここで胡烈は奇策を用いて間道づたいに朱異を襲撃し、 兵糧をすべて焼く戦果を上げた。直後に諸葛誕が捕まり呉軍は退却した。

261年、襄陽太守として呉から[登β]由・李光が投降してくるので迎えるべきだと進言した。 しかし王基司馬昭 にこれを取り上げないよう進言し、事実[登β]由らの投降は無かった。

鍾会の蜀討伐に護軍として同行した。 先鋒として進軍し、姜維が到着する前に蒋舒 を降し、傳僉を討ち取って陽安関を破り、備蓄物資を手に入れた。 [登β]艾諸葛瞻 を破って成都に迫ると退却する姜維を田続[广龍]会と共に追撃した。

鍾会が魏に対して反乱を起こすと、胡烈は他の将帥たちと共に軟禁された。 鍾会の部下の丘建はむかし胡烈が司馬師に推薦した人物であり、 胡烈が軟禁されているのを気の毒に思って食料を運ばせた。 すると元の胡烈の部下たちも胡烈に物資を送った。胡烈はやってきた部下に、 「丘建が内密に、鍾会がお前たちを殴り殺す棒と、 死体を埋める穴を用意しているということを教えてくれた。」というウソを伝え、 同じ内容の手紙を自分の息子の胡淵に送った。この噂は瞬く間に成都の魏軍に知れ渡り、 胡淵が自分の部隊を率いて暴動を起こすと他の部隊も一斉に蜂起し、 騒ぎの中で鍾会は殺害された。

蜀滅亡後、永安に駐屯していた羅憲陸抗に包囲されて半年後、 司馬昭の命で荊州刺史の胡烈は歩兵と騎兵二万を率いて西陵に救援に向かい、 これを受けて陸抗は退却した。後に晋の秦州刺史となった。 (魏書・鍾会伝)


『演義』では鍾会の蜀討伐に従うがほとんど名前だけの登場。 鍾会に対する反乱は『正史』と同じ描かれ方をされる。
各地を転戦し、常に要所を任されていた人物であるといえます。 鍾会の反乱という最大のピンチに際しても機転を発揮して脱出に成功します。
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