王基 伯輿(おうき はくよ)


姓:王
名:基
字:伯輿
生没年(190-261)
出身地:青州東莱郡曲城県
親:王豹
子:王徽

幼い頃に父親を亡くし、育ての叔父への孝行ぶりが賞賛された。 王脩は幼い王基の才能を見抜いていたという。郡に役人として登用されたが、 王基の好みに合わなかったので辞任して琅邪郡で遊学した。黄初年間(220-227)に郎中(若手官吏) に推挙され青州刺史の王凌は彼のことを高く評価し、 中央から王基が招聘を受けても手放さなかった。青州を王凌はよく治めて評判が高かったが、 王基の補佐の功績も大きかったという。曹叡の時代に司馬懿に招聘されて中書侍郎 (勅書担当の役人)に任命された。曹叡の宮殿建設を諌めたこともあった。 曹爽の要請で従事中郎(補佐官)となり、その後安豊太守に任命された。 孫権が建業に兵を集め北上する構えを取ると、 豫州刺史の諸葛誕は王基に相談した。 王基は、「呉は江夏、廬江、襄陽に攻め込みましたが、何の功績もなく引き上げました。 陸遜は死に、周りは信頼が十分でない若い武将ばかりです。孫権は攻めては来ません。」 と答え、果たして予測通りであった。曹爽が失脚すると、以前曹爽に仕えていたため免職となった。

すぐに復官して荊州刺史となり、夷陵、夏口を牽制して呉の動きを封じ、学校を建て、 農業を奨励した。曹芳 が帝位につき毋丘倹らが反乱を起こすと司馬師 は王基に相談を持ち掛けた。王基は「毋丘倹らの反乱は官民の支持を得ていないので平定できる。」と答えた。 司馬師は王基を先鋒にして攻撃を始めた。 王基は状況に応じて時には司馬師の判断を覆して軍を進め、毋丘倹を打ち破った。 諸葛誕の反乱の際にも呉に降った文欽の寿春入りを許してしまいながら、 司馬昭が到着するまでの間うまく諸葛誕軍の包囲を続け、 司馬昭と共に諸葛誕を捕らえた。王基はこの功で征東将軍、都督揚州諸軍事に任命された。

261年、呉の[登β]由が帰順を申し出たが王基はそれを疑って軍を動かすべきではないと進言した。 結局[登β]由の投降はなく、王基の予想した通りであった。その年逝去して景侯とおくり名された。

管輅とも交際があり、彼の占いの力に感嘆して、「才能は天から授かるものである。」 と言って以後易の勉強をやめてしまった。<魏書・王基伝>

「演義」では司馬師が文欽討伐に向かう際、荊州刺史として登場する。 司馬師をよく補佐して勝利に導いた。諸葛誕の反乱でも出陣している。 管輅に占ってもらった話も「演義」にちゃんと記載されている。


文武両道の名将で、なおかつ司馬昭に対してもかなりの発言力と信頼関係があったのでしょう。
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