毋丘倹 仲恭(かんきゅうけん ちゅうきょう)


姓:毋丘
名:倹
字:仲恭
生没年(?-255)
出身地:并州河東郡聞喜県
親:毋丘興
子:毋丘甸、毋丘宗

父の爵位を継いで朝廷に入った。曹叡と仲が良かったことから、 曹叡が帝位につくと尚書郎となり、のちに洛陽の典農となった。 曹叡が農民を徴発して宮殿を建造すると、「天下において急いで除くべきなのは蜀と呉であり、 急務は民の飢えを防ぐことです。今宮殿を立派にして何の益があるのでしょう?」 と上奏した。後に荊州刺史となった。

公孫淵の討伐が計画されると幽州刺史に転任し、 度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の官を加えられ、 237年、幽州の軍隊を率いて遼東に攻めこんだ。 烏丸の単于である寇婁敦や、袁尚に従って烏丸に逃れた者たち五千人余りを降伏させた。 寇婁敦は弟を洛陽に派遣し朝貢した。公孫淵を召し寄せようと、詔勅を送ったが、 公孫淵はこれを無視して出陣してきたため、毋丘倹は公孫淵と戦いを交えた。 十日間も大雨が続き、遼水が氾濫したため、両軍とも引き上げた。 翌年司馬懿に従って再び遼東を攻撃し、公孫淵は平定された。 毋丘倹は安邑侯に封じられた。その後毋丘倹は高句麗討伐を断続的に行い、 梁口で高句麗王の位宮を打ち破り、 高句麗の都である丸都を破壊した。245年の戦いで位宮が再び逃亡すると、 王[斤頁]を派遣してこれを追撃させた。

左将軍・仮節監豫州諸軍事に昇進し、後に鎮南将軍・豫州刺史に転任した。 諸葛誕が呉の諸葛恪に敗れると、 諸葛誕と役目を交代し、鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。 諸葛恪が合肥を包囲すると文欽と共にこれを防ぎ、 司馬孚が援軍として加勢したため、 諸葛恪は引き上げた。

毋丘倹は夏侯玄李豊と親しかった。 しかし彼らは司馬師によって誅殺されていた。 考えがあって毋丘倹は文欽と親交を深め、文欽は毋丘倹を信頼するようになった。 255年、彗星が西北の空を覆った。これは呉・楚の地にあたっていた。 毋丘倹と文欽はこれを自分たちにとっての瑞祥と捉え、 皇太后の詔勅を偽造し、司馬師の罪状を書き連ねて反乱を起こした。 淮南一帯の軍隊・住民を寿春に連れこみ、老人と子供に城を守らせて、 五万の兵を率いて淮水を渡り、項城まで進軍した。毋丘倹は項城を守り、 文欽は城外に遊軍として陣取った。

司馬師は中央軍を率いてこれを討伐した。諸葛誕には豫州の軍勢を、 胡遵には青州・徐州の軍勢を統率させ、別ルートから包囲するように進軍させた。 また司馬師は王基を先鋒に命じて南頓に駐屯させ、こちらから攻撃をかけないよう命じた。 毋丘倹らは前進も出来ず、本拠地の寿春が攻撃される恐れがあり退却も出来ず、 進退窮まってしまった。強制連行してきた兵たちは意気阻喪し、逃亡者が続出、 最後に残ったのは寿春から連れてきた農民たちであった。

司馬師は[登β]艾に1万の兵を与えて弱みを見せて敵を誘い出せ、と命じた。 文欽は計略にかかって[登β]艾を夜襲しようとしたが、司馬師の大軍が到着したため退却した。 司馬師は文欽の軍を追撃して大いに破り、文欽は呉に向かって落ち延びて行った。 毋丘倹は文欽が敗れたことを聞くと城を捨てて逃亡したが、最後は地元の民兵に射殺された。 (魏書・毋丘倹伝)


「演義」でも公孫淵討伐では司馬懿の配下として活躍。 その後曹芳の廃立を行った司馬師に対して文欽と共に反乱を起こす。 項城まで進み司馬昭の大軍と対峙するが、 呉の孫峻が寿春に攻め寄せたと言う情報を知ると動揺して退却する。 最後は県令の宋白により殺された。
魏王朝を守るために敢然と司馬氏に立ち向かった武将ですが、司馬師を超える器でもなく、 時宜にも恵まれなかった悲運の武将です。 「正史」でも「演義」でも比較的短時間であっけなく敗れ去りますが、 鎮南将軍という重職にあった毋丘倹が公然と反乱を起こしたインパクトは大きかったものと思われます。 この毋丘倹を討伐した諸葛誕が後に毋丘倹と同じく豫州を根拠に司馬氏に対して反乱を起こし、 失敗して死んでいくのは何とも運命的なことでしょう!
リストへ戻る