公孫淵の討伐が計画されると幽州刺史に転任し、 度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の官を加えられ、 237年、幽州の軍隊を率いて遼東に攻めこんだ。 烏丸の単于である寇婁敦や、袁尚に従って烏丸に逃れた者たち五千人余りを降伏させた。 寇婁敦は弟を洛陽に派遣し朝貢した。公孫淵を召し寄せようと、詔勅を送ったが、 公孫淵はこれを無視して出陣してきたため、毋丘倹は公孫淵と戦いを交えた。 十日間も大雨が続き、遼水が氾濫したため、両軍とも引き上げた。 翌年司馬懿に従って再び遼東を攻撃し、公孫淵は平定された。 毋丘倹は安邑侯に封じられた。その後毋丘倹は高句麗討伐を断続的に行い、 梁口で高句麗王の位宮を打ち破り、 高句麗の都である丸都を破壊した。245年の戦いで位宮が再び逃亡すると、 王[斤頁]を派遣してこれを追撃させた。
左将軍・仮節監豫州諸軍事に昇進し、後に鎮南将軍・豫州刺史に転任した。 諸葛誕が呉の諸葛恪に敗れると、 諸葛誕と役目を交代し、鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。 諸葛恪が合肥を包囲すると文欽と共にこれを防ぎ、 司馬孚が援軍として加勢したため、 諸葛恪は引き上げた。
毋丘倹は夏侯玄、李豊と親しかった。 しかし彼らは司馬師によって誅殺されていた。 考えがあって毋丘倹は文欽と親交を深め、文欽は毋丘倹を信頼するようになった。 255年、彗星が西北の空を覆った。これは呉・楚の地にあたっていた。 毋丘倹と文欽はこれを自分たちにとっての瑞祥と捉え、 皇太后の詔勅を偽造し、司馬師の罪状を書き連ねて反乱を起こした。 淮南一帯の軍隊・住民を寿春に連れこみ、老人と子供に城を守らせて、 五万の兵を率いて淮水を渡り、項城まで進軍した。毋丘倹は項城を守り、 文欽は城外に遊軍として陣取った。
司馬師は中央軍を率いてこれを討伐した。諸葛誕には豫州の軍勢を、 胡遵には青州・徐州の軍勢を統率させ、別ルートから包囲するように進軍させた。 また司馬師は王基を先鋒に命じて南頓に駐屯させ、こちらから攻撃をかけないよう命じた。 毋丘倹らは前進も出来ず、本拠地の寿春が攻撃される恐れがあり退却も出来ず、 進退窮まってしまった。強制連行してきた兵たちは意気阻喪し、逃亡者が続出、 最後に残ったのは寿春から連れてきた農民たちであった。
司馬師は[登β]艾に1万の兵を与えて弱みを見せて敵を誘い出せ、と命じた。 文欽は計略にかかって[登β]艾を夜襲しようとしたが、司馬師の大軍が到着したため退却した。 司馬師は文欽の軍を追撃して大いに破り、文欽は呉に向かって落ち延びて行った。 毋丘倹は文欽が敗れたことを聞くと城を捨てて逃亡したが、最後は地元の民兵に射殺された。 (魏書・毋丘倹伝)